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2026年9月

2026年9月30日 (水)

伊豆の国市「北条氏邸跡」(円成寺跡)

伊豆の国市の守山西公園入口に「北条一族のふるさとと寺院」という案内板があります。

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北条氏邸跡がある守山は、北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。

守山の東側には、願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。

元弘2(1333)年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻ると、邸宅跡に、一族の円成尼が中心となって、北条氏の冥福を祈るために円成寺を建てました。

平成4年~5年の発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏邸があることが確認されました。

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北条氏邸跡は、北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と、円成寺跡が発見され、国指定史跡に指定されました。北条氏邸跡は今後、史跡公園整備が計画されており、発掘調査が進められています。(伊豆の国市HP参照)

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史跡 北条氏邸跡(円成寺跡)

北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日町付近)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることができる遺跡としてきわめて重要なのです。
 1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心となって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。
 現在の発掘調査では円成寺に関連する池や溝が見つかっています。
(案内板より)

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2026年9月13日 (日)

伊豆の国市 「頼朝と政子 蛭ヶ島の夫婦の像」

韮山駅の東側には蛭ヶ小島、西側には狩野川。

蛭ヶ小島は、かつては狩野川の中州であったと考えられ、蛭が多かったことから「蛭ヶ小島」と名付けられたといいます。

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蛭ヶ小島は、源頼朝が14歳の時に配流され、北条政子と出会い、14歳から34歳まで過ごした地。

※配流地については諸説あり、はじめから北条であったという説、伊東から北条へ移ったという説もあります。
この碑が建つ場所は、後世の推測された伝承地であるそうです。)

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 蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)

 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝 配流の地といわれている。
 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。

 永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。

しかし、 「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻・政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。

このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。

 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。

また、この碑の西側にある高い碑は秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

 伊豆の国市


その蛭ヶ小島の公園の一角に頼朝と政子の夫婦の像があります。

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周囲は田園に囲まれ、夫婦の像は富士山を仰いでいます。

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蛭ヶ島茶屋
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蛭ヶ島公園内にある無料休憩所 。

無料のお茶サービスをはじめ、うどん、そば、味噌おでんなどの軽食を楽しめます。

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2026年9月 3日 (木)

伊豆の国市 北条政子産湯の井戸

伊豆の国市寺家字守山に北条政子の産湯の井戸があります。

源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として1157(保元2)年、この地に誕生しました。その時に産湯の水を とったのが、この井戸と伝えられています。守山北麓の一帯は北条氏の屋敷跡で、後に堀越御所が造られました。この井戸の水は北条政子の伝承から、安産に霊験ありとして、近年まで妊婦に飲ませていました。また、昭和33年の狩野川台風の時、この井戸は泥水に浸からなかったため、付近の住民の飲料水ともなりま した。
(伊豆の国観光協会HPより )

北条氏邸・円成寺跡の東側に位置する井戸であるため、いつの頃からか「政子産湯の井戸」と呼ばれるようになった。本当の北条政子産湯の井戸は隣接する北条氏邸内にあったと考えられる。実際は石造りの井戸で明らかに江戸時代以降の井戸である。かつては近隣の人々の間にこの井戸に安産を願うという信仰などもあったという。
(Wikipediaより)

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  北条政子産湯の井戸
 保元2年(1157年)源頼朝の妻・北条政子がこの地に誕生した時に、産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられています。かつては、妊婦がこの井戸の水を飲んで安産を祈願すると云う信仰がありました。
※現在は飲めません。

 北条政子
保元2年(1157年)ー嘉禄元年(1225)

鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
伊豆国韮山の豪族、北条時政の長女で、源頼朝が韮山の蛭ヶ島に流されていた時に出会い、恋仲となる。打倒平家のため、挙兵した頼朝を支え、武家政権の樹立に貢献した。頼朝が鎌倉に幕府を開いた後は、御台所として存在感を放った。頼朝の死後、嫡男・頼家、次男・実朝が相次いて暗殺されたが、京都から迎えた幼い将軍の後見人となって幕府の実権を握り、世に尼将軍と称された。

この石碑と井戸は隣接しておらず、井戸はここを曲がってさらに奥に入ったつきあたりにあるため、初めて訪ねた時は、井戸を見ずに帰ってきてしまい、悔しい思いをしました。

小学生の遠足でも、この井戸を見つけられずに迷っていることがあるそうです。

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