長等神社と平忠度の歌碑
三井寺の南側に、長等神社があります。
天智天皇が大津京鎮護のため長等山の岩倉に須佐之男大神を祀ったのが始まりで、その後、円珍が日吉大社を合祀し、貞観2年(860)に園城寺(三井寺)の鎮守とし、天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に移りました。
楼門は明治38年(1905)の完成ですが、中世の様式の造りとなっています。
長等神社楼門
この楼門は、三門一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の構造をもっています。
技師安藤時蔵、技術員青池安太郎の設計のもとに明治三十七年五月起工され、同三十八年二月に竣工しました。
この楼門は、比較的小型ながら、上・下の均斉が美しく、左右の広がりも適度に、また各部の曲線も美しくとられ、すぐれた姿をしています。
室町時代頃の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作とされています。また、建築にかかわる棟札や図面などの資料もよく保存されています。
昭和四十七年七月一日大津市の指定文化財となりました。(案内板より)
拝殿
本殿
境内には、平忠度の歌碑があります。
平忠度歌碑
さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
平清盛の弟平薩摩守忠度の詠んだこの歌は有名で「平家物語」や「千載和歌集」にみえている。
平忠度は一度訪れたであろう長等の春の清盛を思い起こして 平家都落ちの 際に詠んだのではないかと伝えられている。
この歌碑は長等山の山頂に建てられている碑より多くの人々に見ていただくためにその歌碑を模して当神社の境内に建碑したものである。(案内板より)
この歌碑は、枝垂れ桜の下にあるので、桜の時期にいつかまた訪れてみたいと思います。
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