源義家

2019年1月31日 (木)

源義家が戦勝祈願した厳島神社(抜弁天)

平安時代に奥州征伐に向かう源義家が戦勝祈願したという東京都新宿区余丁町の厳島神社
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祭神は市杵島姫命ですが、仏教の弁才天と習合したため、新宿山ノ手七福神の弁財天を祀る神社として知られ、通称「抜弁天」(ぬけべんてん)と呼ばれています。
応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営した。この地はこの地域で最も高い場所であり、かつては富士山もよく見えたようで、この時、義家も遠く富士山を望み、さらにその先、安芸に鎮座する厳島神社に戦勝を祈願した。
そして義家は奥州平定を成し遂げ、その帰途、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳島神社を勧請したと伝えられる。
義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けたという伝説と、また境内参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」ともいわれ、江戸の六弁天に数えられる。
江戸時代には稲荷神社もあり、徳川綱吉による生類憐れみの令により付近に野犬のための2万5千坪の犬小屋が設置されていた。 (Wikipediaより)


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2018年7月24日 (火)

源義家が戦勝祈願した王子神社

王子神社の御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」と呼ばれています。
紀州の熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。
創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。
その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。
徳川時代に入ると、徳川家康は、天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。
三代・家光は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。
その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。
特に八代・吉宗は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る花の飛鳥山(現 飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。(王子神社HPより)
明治初期 准勅祭社に指定。
昭和20年(1945年) 戦災で社殿を焼失。
昭和39年(1964年)、昭和57年(1982年)の二回の造営を経て社殿を再建。
(Wikipediaより)
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2018年5月16日 (水)

源義家ゆかりの円通寺

東京都荒川区南千住の円通寺
 
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寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。
 
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円通寺サイトによると、

当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚(首塚)を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。
 
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首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」が刻んである七重の石塔

石造七重の塔の銘に(現存する荒川区最古の石文)

「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」

とあり、別の面に当寺の由緒が刻んである。 
 
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2013年5月25日 (土)

世田谷八幡宮

東京の世田谷区宮の坂に、世田谷八幡宮があります。

 

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寛治5年(1091年)後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀りました。

 

祭神は、八幡大神(応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后。

 

後に世田谷城主七代目の吉良頼康が、天文15年(1546年)社殿を再興させて発展させました。

 

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この日は、井伊家の菩提寺・豪徳寺の帰りに立ち寄りました。

 

世田谷線の線路を越えて、すぐのところにあります。

 

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2012年3月11日 (日)

河内源氏の里を訪ねて(4)源義家の墓

通法寺跡から案内板に沿って歩いて行くと、小高い丘の前に「源頼信 源義家墓」の石碑があります。

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そこから丘を登っていくと頂上付近に源義家の墓があります。

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国指定史跡「源義家の墓」(1039~1106)

源義家は父源頼義・平直方の女の長男として生まれた。
7歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。
前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。
永保3年(1083)には出羽豪族清原の」内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。
この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治6年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。
また、永徳2年(1098)武将ではじめて院への昇殿(殿上人)を許された。
晩年、康和3年(1101)7月、次男対馬守義親が反乱、また三男義国が
嘉承元年(1106)6月に事件を起こすなど義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。最期は嘉承元年(1106)7月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。
(案内板より)

登り口から寂しい山道になっていますので、女性の一人歩きはお勧めできません。

 

この日は、雨上りの日だったので、足元が滑りやすく怖い思いをしました。

これから行かれる予定の方は、ぜひ歩きやすい靴で!


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2012年1月 6日 (金)

河内源氏の里を訪ねて(1)壺井八幡宮

みなさま、新年明けましておめでとうございます
本年もしずかblogをよろしくお願いしますm(__)m

さて、新年最初の記事は大阪の河内源氏の記事です。

昨年秋、大阪府羽曳野市にある神社である壺井八幡宮に行って来ました。

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このエリアは、河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司として赴任し、この地の香呂峰に館を構え、河内源氏の祖となりました。
頼信頼義義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになりました。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役(1051~1062)平定後、源頼義が、河内国香呂峰(こうろみね)の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りとされています。この時、地名を香呂峰から壺井と改めました。

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その後、源頼義は、東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請しました。(後の鶴岡八幡宮)。頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となります。
南北朝から戦国時代にかけ、度重なる兵火で衰退し、現在の社殿は、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものです。
第二次大戦後、現在の壺井八幡宮に改称しました。         

壺井権現社

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壺井八幡宮本殿の奥には頼信・頼義・義家、義綱、義光を祀る摂社・壺井権現社(壺井神社)があります。
天仁2年(1109年)源義家の五男・義時が創建して河内源氏の崇廟としたもので、源氏三神社の一つです。(あとの2つは京都・六孫王神社、摂津・多田神社)

壺井の井戸

丘陵南の石段下にある古井戸「壺井」の由来は、前九年の役の天喜5年(1057)6月7日、頼義公・義家公父子が飲料水に悩まされた時、頼義が八幡大菩薩に礼拝し、自ら弓矢で岸壁を穿ちったところ、そこから清水が湧き出し、戦勝を得たので、湧水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘ってその壺を埋め、「壺井水」と称したといいます。壺井水の井戸は、現在も完全に保存されており、最近まで飲料水として利用されていたそうです。 

義家の歌碑

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吹く風を なこその関と思へども 道も狭に散る 山桜かな

(戦よ、もう起こってくれるな。桜の花が散るように、人の命も散るではないか)

この和歌は千載和歌集に載せられています。  

樹齢800年といわれるクスノキ

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壺井八幡宮境内は、府の史跡にも指定されています。


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2011年12月 2日 (金)

白山神社の旗桜記碑

文京区白山にある白山神社は、地下鉄三田線白山駅から徒歩2分ほどのところにあります。

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社伝によれば、創建は948年、加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したものと伝えられています。
後に元和2(1616)年に2代将軍・徳川秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移されました。

その後、承応元(1652)年5代将軍・綱吉が館林藩主の時、小石川御殿造営地となり、明暦元(1655)年、現在地に移転しました。
この縁で綱吉と桂昌院の厚い帰依を受け以降、徳川将軍家から信仰されたといいます。

境内社として八幡神社があります。

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八幡神社

当社は人皇70代後冷泉帝、永承6(1051)年4月、奥州安部の統王威を椋む。
是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守 源頼義御嫡男 八幡太郎義家両大将は官軍を率て発向したおり、当地は其の時の奥州街道なり
然るに敵将この辺に兵を伏駒を込、数千の薪を集め焼亡さんと計とき両大将
当社前の櫻木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請、御祈誓あり後
一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。
白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして崇敬者多し。
(案内板より)

境内には、八幡太郎義家の故事に沿った旗桜記碑があります。

白旗桜      旗桜記碑
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旗桜の故事

永承6(1051)年、八幡太郎義家が奥州平定の途中この地を通った時、旗をこの樹にかけ戦勝を祈願したといいます。

明治二十九年建立の碑には旗桜記が刻んであります。

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2011年8月31日 (水)

東京の源平史跡(13)炎天寺・八幡神社(2)旗掛の松

炎天寺の境内に続いて八幡神社があります。

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この地周辺を望む小高い丘に、義家軍の白旗を立て掛けた松「旗掛けの松」があり、八幡神社の入口に今も植え継がれています。

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2011年8月25日 (木)

東京の源平史跡(12)炎天寺・八幡神社(1)炎天寺縁起

東武伊勢崎線竹ノ塚駅から南に15分ほど歩いたところにある炎天寺。

縁起によると、前九年の役(1051~1062年)で源頼義・義家父子が奥州に赴く際、炎天下にこの地で戦い、京都の石清水から鎌倉に勧請した八幡社に祈願して勝利した。
そこでここに神社と別当寺を建立したという。

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炎天寺には小林一茶がよく訪れたということから、境内には一茶の
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」
などの句碑や銅像があります。

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2011年6月10日 (金)

東京の源平史跡(8)熊野神社

荒川区の熊野神社。
千住大橋のたもとから歩いて数分のところにあります。

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創建は永承5年(1050年)源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は、当社に成就を祈願し、文禄三年(1594年)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。
以後、大橋のかけかえごとの祈願と神殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀の問屋が立ち並んで「川岸」(かし)と呼ばれ、陸路奥州道中と交差して、川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
(荒川教育委員会)


場所がわからなかったので、自転車を引いて歩いて来た方に、神社のことを尋ねたのですが、ご存じありませんでした。(;ω;)ちょうど神社の前の道だったのですけどね。
民家の間にひっそりと建っているので、見逃さないように注意してください。

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