大阪の福島駅から南へ10分ほど歩いたところに、「逆櫓の松跡」という石碑があり、ここで義経と梶原景時との対立があったという伝承があります。
この付近には、蛸の松や鶴の松など面白いネーミングの松がありましたが、逆櫓の松とともに、明治の初年になくなってしまったそうです。
明治の記録によると、逆櫓の松は樹齢1000年以上、航行の目印になっていたそうですから、かなり大きな松だったのでしょうね。
逆櫓(さかろ)の松跡
『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
大阪市教育委員会
大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の大阪大空襲で行方不明になっていた。昭和33年に見つかり、地元有志によって昭和49年5月に現在地に移設された。 (大阪市福島区HPより)
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