梶原景時

2024年10月24日 (木)

寒川を巡る旅(5)寒川神社

寒川町に鎮座する寒川神社は、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという関東地方における著名な神社の一つであり、初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いそうです。

鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされ、源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等がありました。

以後も北条氏から崇敬され、 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康より社領を認められました。

また、武田信玄が小田原攻めの途中に当社を参拝して戦勝を祈願し、自身の纏っていた兜と太刀を奉納しています。

神池橋、三の鳥居
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寒川神社
御祭神  寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと )
        二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。
例祭日  九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)
由 緒
  当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上
  品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史
  を有しています。
  以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に
  神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし
  た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心
  をなしていました。
  中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田
  信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される
  など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から
  の崇敬は極めて篤いものがありました。
  明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において
  国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。(駒札より一部抜粋)


神門
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御社殿
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客殿
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南門
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2024年10月 7日 (月)

寒川を巡る旅(3)梶原一族郎党の墓

薬師堂の前に、「梶原景時と一宮館址」の案内板があります。

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 梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
 翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司(さむらいどころしょし)をはじめさまざまな重職に携わりました。
 頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 正治2年(1200)1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。

 梶原景時公没後800年記念事業
 平成12年7月 寒川町梶原公顕彰会
 平成27年改修 寒川町教育委員会


梶原一族郎党の墓
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梶原景時館址から東に80mのところにある西町集会所(薬師堂)の裏に、梶原一族郎党の墓と伝えられている石造物群があります。

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  伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓

 この石造物群には次のような言い伝えがあります。
正治2年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
 また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
 なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
平成21(2009)年3月
寒川町教育委員会

 

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2024年9月12日 (木)

鎌倉坂ノ下の御霊神社

鎌倉坂下の御霊神社は、平安時代後期に建立されたと推定されています。

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もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。

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その後、後三年の役で活躍した梶原景時の先祖・鎌倉権五郎景政が祭られ、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードでは、左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したといわれています。その伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされています。(Wikipediaより)

面をかぶった男達が練り歩く9月18日の例祭の面掛行列(めんかけぎょうれつ)は、源頼朝が由来との説があります。

鳥居の目の前を江ノ電が通ることでも有名な神社で、地元では「権五郎さま」と呼び親しまれています。

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2021年5月から御霊神社の境内は、撮影禁止となっているそうなので、鳥居前からの撮影のみです。

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神社の境内を撮影禁止とは初めて見ました。

何かモラルに反することをした人がいたのでしょうか。

 

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2024年8月30日 (金)

梶原の御霊神社

湘南モノレールの湘南深沢駅から徒歩約10分、梶原の御霊神社が見えてきます。

建久元年(1190)梶原景時により創建されたとされています。

坂ノ下の御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読みますが、梶原の御霊神社は「ごれいじんじゃ」と読むようです。

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ご祭神は、鎌倉権五郎景正で、本殿には、梶原景正夫妻像、梶原景時の像、三猿像が安置されているといいます。

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元々は葛原ヶ岡に創建されたもので、また坂ノ下の御霊神社は、元はこの御霊神社を移したものだとも言われています

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隣接する深沢小学校の裏手に「やぐら」があり、梶原景時と一族の供養塔(五輪塔)があります。

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(深沢小学校の敷地内のため、お参りには学校の許可が必要です)

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2024年7月31日 (水)

梶原景時が勧請した品川の梶原稲荷神社

品川区東大井にある梶原稲荷神社は、源頼朝の命により梶原景時が建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請したのが起源と伝わっています。


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元応元年(1319)萬福寺は兵火に見舞われ、馬込村(大田区)に移されました。

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その際、焼け跡に残された稲荷社は梶原景時の屋敷に奉遷され、のちに来福寺に奉納されたと伝えられています。

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背後のブロック塀に囲まれた一画が梶原塚といい、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る墳墓だといいます。

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境内にはカラフルな花も添えられて整備されていますが、お稲荷様のお顔がちょっと怖かったですΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)

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2024年7月19日 (金)

建長寺に伝わる梶原景時の伝説

鎌倉の建長寺では、梶原景時の亡霊が施餓鬼供養に遅れてやってきたという伝説が残されています。

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毎年、景時のために7月15日、山門にて午前8時に国宝の梵鐘が撞かれ、「三門施餓鬼」と「梶原施餓鬼」が続けて行われています。

 

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2012年5月20日 (日)

逆櫓の松跡趾

大阪の福島駅から南へ10分ほど歩いたところに、「逆櫓の松跡」という石碑があり、ここで義経梶原景時との対立があったという伝承があります。

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この付近には、蛸の松や鶴の松など面白いネーミングの松がありましたが、逆櫓の松とともに、明治の初年になくなってしまったそうです。
明治の記録によると、逆櫓の松は樹齢1000年以上、航行の目印になっていたそうですから、かなり大きな松だったのでしょうね。

 逆櫓(さかろ)の松跡

 『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。   
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
             大阪市教育委員会

大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の大阪大空襲で行方不明になっていた。昭和33年に見つかり、地元有志によって昭和49年5月に現在地に移設された。 (大阪市福島区HPより)

 


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2011年11月 6日 (日)

梶原景時ゆかりの興禅寺

興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。

羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城された。
景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母隅の方ゆかりの羽黒の地にのがれ、代々住み着いた。
戦国時代になって、景親から17代目の景義は織田信長に仕えて、羽黒村3千石を領有していたが、本能寺の変で討死し、 梶原家は絶えた。
天正12年(1584)の小牧山合戦の際、秀吉がこの城を修復させ、城砦を築いた。 この城砦も焼け、廃城となり今日に至っている。
( 説明板より)

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境内には梶原景時の首を葬った景時、景義および梶原一族の墓があります。

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またここは、山内一豊の母・法秀尼ゆかりの寺でもあります。

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2009年5月28日 (木)

静岡の旅(9)梶原堂(2)

御堂の横には、景時、景季、景高のお墓があります。(丸い石を中にした五輪塔は供養塔)
今は、形が崩れてしまっていますが、昭和5年ごろは、墓も刻字もしっかりしていたそうです。
長年、墓石が風雪に耐えてきたことがわかりますね。
明治4年に龍泉院が廃寺になってから牛ヶ谷区、矢崎区の信徒により毎年旧暦2月28日に祭典をしていましたが、昭和38年から新暦の3月3日に行っているとのことです。


これで静岡の旅シリーズは終了です。

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2009年5月14日 (木)

静岡の旅(8)梶原堂(1)

梶原山公園から真っ先にタクシーで向かったのが、この梶原堂です。

元々は、梶原山龍泉院という梶原景時を本尊とした梶原一族をまつるためのお寺でした。
梶原一族が滅亡してから160年経った1360年12月28日のこと、景時の8代の孫である梶原景慶が駿河に赴任して来ました。
景慶は、足利尊氏の弟である直義の援助を得、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、景時をまつりました。
1822年、龍泉院は火災により全焼しますが、景時、長男・景季、次男・景高、源頼朝、頼家の位牌と如意輪観音像、毘沙門天像は無事でした。
その時の住職が、梶原家と縁のある上杉家に寺院の再興を頼み、御堂を贈られました。
その後、梶原堂は何回かの復元を得、昭和37年、矢崎山が削られるにあたり、御堂を今の場所に移転しました。
現在の鉄筋の御堂は、この時に再建され、中には景時、頼朝の位牌と、如意輪像のみが納められています。(清水探訪参照)

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