松尾芭蕉

2017年8月 5日 (土)

高野山を訪ねて(23)奥之院 芭蕉の句碑 

松尾芭蕉は貞享5年(1688)、両親の供養ため、高野山を訪れた際、奥之院の参道で、
「キジの鳴き声を聞いていると、しきりに父母が恋しいと鳴いているように聞こえる」と詠んだと伝えられ、
父母のしきりにこひし雉子(キジ)の声」と刻まれた句碑が建てられています。
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この句碑は、安永4年(1775)に建立され、文字は池大雅によるものだそうです。

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2013年7月14日 (日)

曽我兄弟の史跡(3)工藤佑経の墓

曽我の隠れ岩の近くに工藤佑経の墓があります。

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工藤佑経の墓

建久四年(1193年)五月二十八日しのつく雨の夜、工藤祐経は曽我兄弟の仇討ちにより、陣屋で殺害されました。富士の巻狩りの最後の夜に起きたこの事件は当時大騒動になりました。 曽我兄弟の兄十郎は、捕えられ処刑されました。この墓は曽我によって討たれた工藤祐経がこの地に埋められたと伝えられることから、ひっそりと守られてきました。この西方にある「曽我の隠れ岩」とともに、この地が武士道を象徴する三大仇討の一つの舞台となった歴史をしのばせてくれます。なおこの東南約1キロのところの上井出字上原には源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるため建てられた曽我八幡宮があります。

                         富士宮市

工藤佑経とは

平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京,左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に,伊豆国伊東荘を預けていたが,祐親が押領したとして相論となった。祐経の妻は祐親の娘であり,この対立のため祐親の許に連れ戻され,土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は,安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い,祐親の嫡子河津祐泰を殺害した。源頼朝の挙兵以後,早くから頼朝方に付き,幕府成立以後は,在京の経験から,楽などの道にも通じており,頼朝の信任も厚く,平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また,平家追討で九州へ従軍し,5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年,河津祐泰の子の曾我十郎祐成・五郎時致兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。   (コトバンクより)

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2010年10月28日 (木)

義仲寺(2)義仲と芭蕉

義仲の墓の隣には、松尾芭蕉の墓が立っています。

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義仲寺は、江戸時代中頃までは、義仲の墓と伝えられる塚に柿の木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていました。
芭蕉が最初にこの寺を訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、その年の暮れは当寺で過ごしたそうです。その後、義仲を敬愛していた芭蕉は、膳所の地をたいそう気に入り、度々訪れました。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句は、伊勢の俳人・山田又玄が、1691年、無名庵に滞在中の芭蕉を訪問した時のものです。

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1694年、旅の途中に大阪で死去した芭蕉は、義仲寺に葬ることを遺言し、門人の向井去来らにより、遺骸を木曽塚に運ばれ、埋葬されました。
「平家物語」の史跡めぐりをしていると、各地で芭蕉の句碑に出会います。
倶利伽羅峠の古戦場跡には、「義仲の寝覚めの山か 月悲し」という句碑が残されており、この句碑からも、芭蕉が義仲を敬愛していたことがわかります。

芭蕉翁墓

芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。
享年51歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第2土曜日に営む。(芭蕉翁墓の説明より)

翁堂

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正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。
翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。
翌7年に画像完成。
安政3年(1856)類焼、同5年再建。
現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年5月の第2土曜日に行う。(翁堂の説明より)

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