近江路・歴女ブロガーの旅紀行

ラジオ番組収録に!

12月23日、NHKラジオ第一の元旦SP「歴女たちの関ヶ原」の番組の収録に東京まで出かけて来ました。
そもそも、なぜこのラジオ番組に出演することになったのかというと、今年の秋、滋賀県観光交流局主催の「近江路・歴女ブロガー」に選んでいただいたことがきっかけでした。
その旅に参加したブロガーの中より8名が、来年の大河ドラマ「江」に関連した番組に出演することになったのです。

渋谷のNHK放送センター
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収録当日は、11時にNHK放送センターに集合。
(後で聞いた話によると、ロビーで待っている間に、女優の松坂慶子さんが、目の前を通って行ったそうですが、気付かなかった~bearing
歴女ブロガー8人が揃うと、ディレクターさんが、館内を案内してくれ、大河ドラマの撮影が行われているスタジオの入り口をちょこっと覗くことができました。
館内は、迷路のようで、一人で歩いていたら迷子になりそうcoldsweats02

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簡単な打ち合わせの後、歴女ブロガーさんと会話しながら昼食タイムcafe
NHKさんにお弁当を用意していただきましたm(_ _)m
初めて話すブロガーさん達は、みなとても気さくな方で、初めて会ったとは思えないくらい打ち解けて話せました。

13時過ぎにスタジオ入り。

この日の収録が行われたスタジオ
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(左から)NHKの内藤アナウンサー、歴ドルの美甘子さん、鹿児島大学教授の原口先生、歴ドルの小日向えりさん
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収録は、ラジオミニドラマを聴いた後、歴ドルの方のコメントに続き、歴女ブロガーの意見、ゲストの柴俊夫さんの感想、原口先生の補足説明といった進行でした。
番組内容についての事前アンケートがあり、それを基に自分の回答を述べることになっていたのですが、歴ドルの方達や、ゲストの柴さんとコメントが被ってしまい、パニックにcoldsweats02
急遽、自分のコメントをカットしたり、変更しなければならなくなり・・・Σ(゚д゚;)

まあ、そんなこともありながら、無事収録終了。
大学教授の原口先生、歴男の柴さん、歴ドルの方達、他のブロガーさんの意見が聞けて、大変勉強になりました。
編集され、どんな番組になっているか楽しみです。
お世話になったNHK番組関係者の皆様、貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。 o(_ _)oペコッ

番組HPから歴女ブログがリンクされています。番組内容と合わせ、ご覧ください。

http://www.nhk.or.jp/radiosp/rekijyo/

放送は、1月1日(土)午後9:30~11:00です。

お楽しみに!

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お知らせ

NHKラジオ第一の元旦SP「歴女たちの関ヶ原」に

出演することになりました!

ともに「大河ドラマの舞台を訪ねて」をやっている

merryさんも一緒です。

歴ドルのお二人も出演されます。

番組HPもでき、当ブログがリンクされていますので、

覗いてみてください。

http://www.nhk.or.jp/radiosp/rekijyo/

放送は、1月1日(土)午後9:30~11:00

お時間のある方は、ぜひラジオに耳を傾けてくださいね。

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舎那院 

長浜八幡宮の隣にある真言宗豊山派の寺で、弘仁5年(814年)、空海によって開山され、もとは、勝軍山法生寺という長浜八幡宮の学当でした。

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平安中期には源義家が東夷征伐の前に、ここで戦勝祈願を行ったといわれています。
信長の戦火のために焼失しましたが、安土桃山時代に豊臣秀吉が再建しました。
現在の本堂は、八幡宮の旧本地堂で、明治以降は、本尊の愛染明王坐像にちなんで、愛染堂とよばれていました。
寺宝には、木造阿弥陀如来坐像、絹本著色三月経曼茶羅図、絹本著色十六羅漢像があり、約3300平方メートルの境内には本堂、観音堂、太子堂、地蔵堂、護摩堂などの多くの堂宇が建ち並びます。
またフヨウの寺としても知られ、7月下旬から9月にかけて、境内一面に芙蓉の花が咲き揃います。(滋賀県観光情報HP、「滋賀県の歴史散歩」参照)

私が訪問した時、ちょうどフヨウが見頃になっていました。
長浜八幡宮の境内から繋がっているので、八幡宮のついでに立ち寄ることをお勧めします。

長浜市宮前町13-45

この記事をもちまして、滋賀の旅編を終了します。
最後まで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
次からは、また神戸の史跡巡りに戻ります。

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長浜八幡宮

長浜八幡宮は延久元年(西暦1069年)、源義家が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮を勧請して創建したとされ、豊臣秀吉の庇護を受けて発展しました。
誉田別尊(ほむたわけのみこと)(応神天皇)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)を祭神とします。

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創建当時の社頭は、本宮の石清水八幡宮を凌ぐくらいであったといわれますが、その後兵火により社殿はほとんど消失されました。天正二年(西暦1574年)秀吉が長浜城になり、社殿の修復がなされました。この史実は、長浜曳山祭の起源とも言われています。
4月14日から16日に行なわれる長浜八幡宮の春の例祭・長浜曳山まつりは、国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年全国から数万人の観光客を集めています。

長浜市宮前町13-55

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義経隠れ岩

JRマキノ駅からタクシーで義経隠れ岩へ
海外沿いを走ること10分、約2mほどの岩が見えてきます。
この場所は、ガイドブックにも載っていなかったので、
高島観光協会で地図をもらって、運転手さんに渡して連れて行って
もらいました。

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「義経の隠れ岩」(伝承)と言われている2メートル四方、高さ1.7メートル程の、かがんで人が隠れることができるぐらいの穴のあいた岩があります。源義経は、兄の頼朝に協力して、それまで権力をほしいままにしていた平家を亡ぼし、源氏の時代をつくりましたが、戦い方があまりにも上手で、人気が兄をしのぐようになったため頼朝に憎まれてついに追われる身になりました。そして、北国海道を人目につかないように奥州平泉の藤原秀衡を頼ってのがれて行ったのですが、義経たちがこの土地を逃げながら通りかかったのは、文治3年(1187)2月で、今から約800年前のことでした。義経たちや馬がこの岩に隠れたかどうかは分かりませんが、海津付近に上陸し、一時身を隠して北国へ落ちていったことは有名な義経の謡曲「安宅」(あたか)の一節にも謡われているように事実のようです。
(びわ湖高島観光協会)

高さ1.7m幅2mほどの岩で、海津大崎の少し手前の湖岸にあります。義経が兄の頼朝に追われる身となり奥州平泉に逃れる時、この土地を通りかかったといわれています。義経がこの岩に隠れたかどうかはわかりませんが、海津付近に上陸し一時身を隠して北国へ逃れていったことは謡曲「安宅」の一節に謡われています。
(滋賀県観光情報)

文治3年、義経主従が大津より北陸に都落ちする時、海津着船の際、敵に知られないようにしばらく隠れていたと伝えられる岩です。謡曲「安宅」の中でも謡われています。
(画像真ん中の案内板の説明より)

岩に近づいてみると、岩の下方に穴が開いているの確認できました。
小柄な義経さまなら、きっとここに隠れることができたのでしょう。

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竹生島 「都久夫須麻神社」

都久夫須麻神社本殿

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私が行った時は、ちょうど修復中でしたが、本殿の説明によると、

本殿は、桁行五間梁間4間の入母屋造の桧皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。
慶長七年(1603)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造をしています。
両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が、内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。
折上格天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。

拝殿には、「平経正」さまの名を見つけました。

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かわらげ投げ

拝殿のびわ湖側に突き出たところにある竜神拝所では、かわらげに願い事を書き、鳥居へと投げるかわらけ投げが有名です。
投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。

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帰りの船の時刻の関係で、滞在時間がわずか30分となってしまい、慌しい見学になってしまいました。
次回訪問する時は、宝物館にも入ってみたいと思っています。

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竹生島 宝厳寺(2)

宝物殿

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宝物館には、「平家物語」に出てくる琵琶の撥があります。
寿永2年(1183)平経正が木曽軍征伐の際、来島し、戦勝祈願の為、琵琶をひいたという撥です。

平経正・・・(たいらのつねまさ)平経盛の長男で、清盛の甥にあたります。弟には経俊、敦盛がいます。歌人としてまた琵琶の名手として名を挙げました。
幼少時代は、仁和寺で過ごしたという縁で、仁和寺五世門跡・覚性法親王から琵琶の銘器「青山」を下賜されるなど、寵愛を受ました。
義仲軍が攻めてくると、後白河天皇第二皇子・守覚法親王に名器を返上し、都落ちして、一の谷合戦で討ち死にしました。

能では「経政」の主人公として描かれ、また、琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に出てきます。


残念なことに、琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、経正ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、経正が青山を弾いた際に使用したとされる撥が納められているとのことです。

ちはやふる神に祈りのかなへばや、しるくも色のあらはれにけり  平経正

弁財堂から正面の石段を下りて来ると、観音堂があります。

観音堂は、慶長8年(1603)、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、片桐旦元を普請奉行として、京都東山の豊国廟から移築寄進されたとするものです。

観音堂

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観音堂の入り口にあたる国宝の唐門は、檜皮葺きで、前後に唐破風を持ち、極彩色の彫刻や飾金具が施され、豪華絢爛な桃山様式の代表的遺構といえます。

唐門

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観音堂から都久夫須麻神社本殿に続く渡廊は、秀吉の日本丸と名付けられた御座船の材を利用したものとされ、舟廊下とよばれています。

舟廊下

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竹生島 長浜市早崎町1164

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竹生島 宝厳寺(1)

長浜港から琵琶湖汽船で竹生島へクルーズ

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竹生島は、長浜市の湖岸から約6キロメートルにあり、周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルの琵琶湖上で沖の島に次ぐ2番目に大きな島です。
島の名前は「神の斎く(いつく)住居(すまい)」を意味し、その中の「つくすまい」が「つくぶすま」と変じ「竹生島」になったそうです。
また、「竹生島」という漢字は、竹が生えているからという説や、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙に似ていることから付けられたという説などがあるそうです。
明治時代の神仏分離令によって、弁才天を本尊とする「宝厳寺」と浅井姫命を祀る「都久夫須麻神社」に分かれています。

ここから祈りの階段と呼ばれる165段の石階段を上ります。

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瑞祥水

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五重石塔

宝厳寺の由緒は古く、聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、行基が来島し、四天王像をつくり、小堂に安置したのが始まりといいます。

竹生島流棒術発祥の地

平安時代後期、源平合戦に起源を持つこの流派は、流祖の難波平治光閑が信仰していた竹生島の弁財天にあやかり、その名をつけたと伝えられています。

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石段を上りきると、
厳島、江の島とならぶ“日本三弁才天”のひとつである弁天堂があります。平安時代以降、竹生島弁財天社として信仰を集めてきましたが、明治の神仏分離により、宝厳寺に属しました。

弁天堂

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三重塔

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江戸時代に、落雷により焼失しましたが、2000年に約350年ぶりに復元されました。

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初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間の形や各重笠石の反りの形状などから鎌倉時代の特徴が見られます。
五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは、全国で七基しかなく、これはその一つです。
豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが後補のものとなっています。

竹生島 長浜市早崎町1164

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三井寺 弁慶の引き摺り鐘

三井寺駅から、琵琶湖疎水沿いに西に向かって10分ほど歩くと、三尾神社が見えてきます。そこを曲がると三井寺(園城寺)の仁王門に突き当たります。

琵琶湖疎水

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仁王門

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三井寺の名は、「天智・天武・持統」天皇の産湯に用いられたとされる泉があることから、「御井の寺」とよばれ、平安時代に円珍が密教の三部灌頂にこの水を使用し、「三井」とよばれたことに由来します。

壬申の乱に敗れた大友皇子の子である与多王が、父の霊を弔うために、「田園城邑」(でんえんじょうゆう)を寄進して寺を創建し、この文字にちなんで、天武天皇から「園城寺」という勅額を贈られたことが、園城寺の始まりとされています。

衰退していた園城寺を再興したのは、円珍で、園城寺に唐院を建て、唐から持ち帰った経典を納めました。円珍の死後、延暦寺では、円仁派と円珍派が対立。
993年、円珍派が、比叡山を降りて園城寺に入り、その後、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しました。
文禄4年(1595年)、三井寺は、秀吉の怒りに触れ、寺領の没収を命じられ、堂宇は強制的に移築され、廃寺同然になってしまいます。(当時の金堂は、延暦寺西塔釈迦堂として現存しています)
しかし、秀吉の死後直前、再興を許可し、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められました。(三井寺HP、Wikipedia、滋賀県歴史散歩参照)

食堂

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金堂

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北政所の寄進により、1599年に再建されました。

閼伽井屋

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閼伽井屋は、1600年の建立で、金堂西側奥に金堂と接して建っています。
寺名の由来となった泉が、今もなお音を立てて沸いています。閼伽井屋の正面内部には、左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻が施されています。

金堂の奥を上がって行くと、「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる奈良時代の梵鐘があります。
承平年間(10世紀前半)に藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると 「イノー イノー」(帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはひびが入り、乳(ち)が16個引きちぎられ、傷跡も残っています。
また、この鐘は、寺に良くないことがあるときには、にその前兆として鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴るといった不可思議な現象が生じたとわれています。
現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されています。
(「義経ハンドブック」、三井寺HP参照)

弁慶の引き摺り鐘

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そして、鐘の横には、大きな汁鍋もありました。

弁慶の汁鍋

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弁慶の伝説に纏わるものは、豪快なものが多いですね。

また近江八景のひとつ三井の晩鐘は、弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎとして、鋳造されたそです。

三井の晩鐘

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三重塔

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元々は、室町時代初期に建てられた吉野の比蘇寺の塔でしたが、1601年、家康により移築されました。

三重塔の南側にには、円珍の廟所の唐院があり、三井寺のもっとも神聖な場所とされています。

唐院灌頂堂

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長日護摩堂

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こちらも石山寺と同様、境内が広く、時間に余裕がないと廻りきれません。
またの機会にゆっくりと訪れてみたいお寺のひとつです。

三井寺(園城寺) 大津市園城寺町246

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石山寺

京阪石山寺から瀬田川沿いを歩いて10分。石山寺の東大門に突き当たります。

東大門

仁王門、山門、総門とよばれる東大門は、1190年、頼朝が寄進したとされ、1600年に淀殿によって大修理が行われました。

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石山寺は、西国三十三カ所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の命により、良弁僧正によって開かれました。古くは、朝廷、皇族、貴族の信仰が篤く、頼朝紫式部淀殿島崎藤村、松尾芭蕉ともゆかりのある寺です。

四季ごとに花が楽しめることから、「花の寺」ともよばれています。この季節は、萩が見ごろになっていました。

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広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)の奇岩、怪奇岩がそびえています。

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本堂

正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。

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正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。
本堂にある「源氏の間」は、紫式部が「源氏物語」の構想を練り、書き始めた場所と伝えられています。
          
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多宝塔

源平の乱にあたって頼朝の命を受けて戦った中原親能は、石山寺の毘沙門天に戦勝を祈願し、事の成就に感謝して勝南院を建立しました。
このとき頼朝は、乳母であり親能の妻でもあった亀谷禅尼の請によって、多宝塔(国宝)を寄進しました。日本最古の多宝塔で、一階が方形、二階が円形の建築様式です。
屋根は宝形造で、曲線美の優美さが特徴。内部の柱や天井の周りには仏像や草花などの絵が描かれています。日本三大多宝塔の一つ。
多宝塔後部にある月見亭からの瀬田川の眺めは、特に9月の中秋の名月の頃が一番とされ、近江八景のひとつとして知られています。

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鐘楼

多宝塔の下にある鐘楼も頼朝の寄進とされています。
入母屋造の檜皮葺の屋根で、梵鐘は重要文化財に指定されています。

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頼朝・亀谷禅尼の供養塔

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これから秋が深まると、境内の紅葉が真っ赤に染まるのでしょうね。
またそんな景色をゆっくり見に訪れたいです。

(滋賀県石山観光協会HP、「滋賀県の歴史散歩」参照)

石山寺 大津市石山寺1-1-1

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