源頼信

2012年3月16日 (金)

河内源氏の里を訪ねて(5)源頼信の墓

源頼信の墓は義家の墓からさらに数10m登ったところにあります。

Img_3969_b Img_3967_b_2 Img_3968_c_2 Img_3970_b

国指定史跡「源頼信の墓」(0968~1048)

源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。
20歳の時中央官界に身を置き、藤原通兼や道長に仕えた。
特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。
また上野・常陸・石見伊勢・美濃などの国司を歴任しており最期に河内国司となる。その時、河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え河内源氏をひらくもとになった。
永承3年(1048)81歳の時、この地で死去し遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵に葬られた。
(案内板より)

これで羽曳野の源氏三代の墓の記事は終了です。

次は大阪の平家ゆかりの寺院の記事です


FC2ブログランキング&人気ブログランキングに参加しています

応援のポチッのご協力お願いします。

人気ブログランキングへ

2012年1月29日 (日)

河内源氏の里を訪ねて(2)通法寺跡

壺井八幡宮から石段を下ってしばらく進むと、通法寺跡があります。

Img_3953_b Img_3955_b

通法寺は、1043(長久4)年に河内国司であった源頼信が子の頼義とともに小堂を建てたことに始まります。
前九年合戦で、東北地方で活躍した頼義が浄土教に帰依し、阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となりました。

南北朝時代~戦国時代にかけて戦火で焼失。
1700(元禄13)年、5代将軍・徳川綱吉の時に、子孫の多田義直が願い出て、大僧正隆光や柳沢吉保らにより、壺井八幡宮・壺井神社とともに再建されましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、今では山門、鐘楼などを残すのみです。

案内板が朽ち果てていて、よく読めませんでした(^_^;)


FC2ブログランキング&人気ブログランキングに参加しています

応援のポチッのご協力お願いします。

人気ブログランキングへ

2012年1月 6日 (金)

河内源氏の里を訪ねて(1)壺井八幡宮

みなさま、新年明けましておめでとうございます
本年もしずかblogをよろしくお願いしますm(__)m

さて、新年最初の記事は大阪の河内源氏の記事です。

昨年秋、大阪府羽曳野市にある神社である壺井八幡宮に行って来ました。

Img_3943_b_2 Img_3952_b_2 Img_3951_b_2

このエリアは、河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司として赴任し、この地の香呂峰に館を構え、河内源氏の祖となりました。
頼信頼義義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになりました。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役(1051~1062)平定後、源頼義が、河内国香呂峰(こうろみね)の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りとされています。この時、地名を香呂峰から壺井と改めました。

Img_3944_b

その後、源頼義は、東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請しました。(後の鶴岡八幡宮)。頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となります。
南北朝から戦国時代にかけ、度重なる兵火で衰退し、現在の社殿は、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものです。
第二次大戦後、現在の壺井八幡宮に改称しました。         

壺井権現社

Img_3940_b Img_3941_b

壺井八幡宮本殿の奥には頼信・頼義・義家、義綱、義光を祀る摂社・壺井権現社(壺井神社)があります。
天仁2年(1109年)源義家の五男・義時が創建して河内源氏の崇廟としたもので、源氏三神社の一つです。(あとの2つは京都・六孫王神社、摂津・多田神社)

壺井の井戸

丘陵南の石段下にある古井戸「壺井」の由来は、前九年の役の天喜5年(1057)6月7日、頼義公・義家公父子が飲料水に悩まされた時、頼義が八幡大菩薩に礼拝し、自ら弓矢で岸壁を穿ちったところ、そこから清水が湧き出し、戦勝を得たので、湧水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘ってその壺を埋め、「壺井水」と称したといいます。壺井水の井戸は、現在も完全に保存されており、最近まで飲料水として利用されていたそうです。 

義家の歌碑

Img_3948_b Img_3949_b Img_3950_b

吹く風を なこその関と思へども 道も狭に散る 山桜かな

(戦よ、もう起こってくれるな。桜の花が散るように、人の命も散るではないか)

この和歌は千載和歌集に載せられています。  

樹齢800年といわれるクスノキ

Img_3942_b

壺井八幡宮境内は、府の史跡にも指定されています。


FC2ブログランキング&人気ブログランキングに参加しています

応援のポチッのご協力お願いします。

人気ブログランキングへ

2011年2月18日 (金)

東京の源平史跡 西久保八幡神社

東京・虎ノ門5丁目にある西久保八幡神社 寛弘年中(1004~1012)に、源頼信が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたりに創建したといいます。太田道灌の江戸城築城に際、現在地に遷されました。江戸八所八幡のひとつで、「八幡神社」「飯倉八幡宮」とも呼ばれています。

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源(多田)満仲の三男。
兄・頼光と同じく摂政関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕えた。甲斐守在任時に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと、藤原道長の四天王、或いは四天王と称された。
(Wikipediaより)

Img_2701_b 

今年の大河ドラマの主人公・江(徳川秀忠正室・崇源院)は、慶長5年(1600)、家康秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、寛永11年(1634)、そのお礼参りとして、社殿が造営しました。明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と呼ばれていました。

Img_2702_b

都バスの「虎ノ門5丁目」のバス停のすぐ前です

人気ブログランキング参加中
 投票お願いします!
人気ブログランキング

FC2ブログランキング参加中
 投票お願いします!
FC2ブログランキング

その他のカテゴリー

イベント 三浦義村 丹後局 亀井六郎 京菓子 仁田忠常 今井兼平 今若(全成) 伊東祐親 伊東祐隆 佐竹義重 佐藤継信・忠信 俊寛 八条女院 八重姫 六代御前 北条政子 北条時房 北条時政 北条氏 北条泰時 北条義時 北条長時 千葉氏 和田義盛 土佐坊昌俊 堀河天皇 大姫 大庭景親 大河ドラマ展 安徳天皇 安達泰盛 安達盛長 富樫泰家 小督 尼御前 山吹御前 崇徳院 嵯峨天皇 巴御前 常盤御前 平宗盛 平康頼 平忠度 平忠盛 平敦盛 平時子(二位尼) 平時忠 平景清 平業盛 平清宗 平清盛 平盛俊 平知盛 平知章 平経正 平維盛 平親範 平道盛 平重盛 平重衡 平頼盛 建礼門院 弁慶 待賢門院 後嵯峨天皇 後白河天皇 後醍醐天皇 後鳥羽上皇 文覚上人 斉藤実盛 日蓮 曾我兄弟 木曽義仲 松尾芭蕉 梶原景季 梶原景時 比企氏 法然上人 浄瑠璃姫 清和天皇 渡辺綱 湛増 源実朝 源平グッズ 源朝長 源満仲 源為義 源範頼 源経基 源義光 源義家 源義朝 源義経 源頼信 源頼光 源頼家 源頼政 源頼朝 源頼義 滋賀のイベント・観光情報 滝口入道・横笛 熊谷直実 熊野御前 畠山重忠 白河天皇 祇園祭 祇王・祇女・仏御前 美福門院 義経ゆかりの地を訪ねて 藤原師長 藤原秀衡 袈裟御前 西行 近江路・歴女ブロガーの旅紀行 近衛天皇 那須与一 金売り吉次 長田忠致 阿古屋 阿波内侍 静御前 順徳天皇 高倉天皇 鬼一法眼 鳥羽天皇

2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

カテゴリー

無料ブログはココログ