源義朝

2014年7月21日 (月)

頼朝ゆかりの阿弥陀如来像

鎌倉の長谷寺は、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したといいます。

Img_7468_hase

観音堂
Img_7577

阿弥陀堂
Img_7578

観音堂右隣の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれ、「鎌倉六阿弥陀」の一つに数えられています。

この像は元は廃寺となった市内の誓願寺の本尊であったということです。

初夏は、あじさい寺としても人気が高く、境内に咲き誇る紫陽花を撮影する人達で賑わいます。

Img_7484_hase Img_7494_hase Img_7523_hase Img_7556_hase

 Img_7563_hase Img_7589_hase


応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ










| | コメント (6)
|

2013年3月19日 (火)

源義朝を追って(3)甲ヶ淵

八瀬川の少し上流には、義朝一行が東国に落ち延びる際、比叡山の法師に襲われ、家臣の斎藤別当が兜を投げ込み、法師らがそれを奪い合う間に逃げたという甲ヶ淵があります。

20130214124009d4f

20130214124008e12

比叡山には、信頼や義朝が打ち負けて大原口へ落ちると噂が流れ、延暦寺・西塔の法師どもがこれを聞いて、「いざ、落人を打ち捕らえん」とて、2、3百人が千束ヶ岳に待ち構えました。義朝がこれを聞いて「都にて、兎も角もなるべきこの身が、鎌田兵衛の他愛も無い申し状に従ってここまで落ちて、叡山の僧兵の手に掛かり、甲斐なく死ぬ事こそ口惜しい」と申しました。齋藤別当・実盛が申すには、「ここをば、この齋藤別当が、御通し致しましょう」とて馬より降り、甲を脱いで手に下げ、髪を乱して顔に振り掛けながら、法師らに近寄って申すには、「右衛門督・信頼殿、左馬頭・義朝殿など主なる人々は皆、大内や六波羅にて討死になされた。
我らは諸国から召し出された借り武者どもにて、恥を忍んで妻子を見んがために、本国へ落ち下る所である。それを打ち留めて、罪作りにも何事かなさるお積りか。武具が欲しいなら差し上げよう。されば、ここを通されよ」と申しますと、「彼の申すとおり、大将ではなさそうだ。木っ葉武者を討っても無益なり。武具さえ脱ぎ捨てれば通してやろうではないか」と法師らが詮議すれば、実盛が再び申すには「法師の方々は多勢にて、我等は小勢なり。されば、鎧甲の数が足らぬ。そこで、我等が武具を投げるに従い、奪い取り給えや」と言えば、前面に立つ若法師が、「汝の申す事も、尤もなり。それも面白かろう」とて、法師が集まって来ました。後から来た老僧も我劣らじと押し寄せて来ました。
法師が競い合うところに、実盛が甲を彼らに向って、ぱっと投げ与えました。
我も取らんと揉み合いを始めた法師らは、敵の面前である事をすっかり忘れてしまいました。
源氏の32騎の兵がこの隙を突き、太刀を抜き放ち甲の錣を傾けて、どっと法師の中に駆け入り蹴散らして通れば、法師らは慌てて長刀を取り直し、漏らさず討てやとて追っ駆けて来ました。実盛が髪を振り乱して大童になり、大きな矢を取ってつがえながら「同じ敵でも、相手によるぞ。我は源義朝の郎等にて、武蔵の国の住人・長井の齋藤別当実盛と申す者なり。捕らえんと思はば寄れや、手柄の程を見せようぞ」とて、取って返して、きっと構えれば、法師の中に弓矢の心得ある者はなし、これは叶わぬと思ったのか。皆そこを引き揚げて帰りました。
(平治物語より)

応援のポチッのご協力お願いします。wink


人気ブログランキングへ

| | コメント (2)
|

2013年3月 4日 (月)

源義朝を追って(2)義朝駒飛石

碊観音寺の前の八瀬川に、駒飛橋という橋が架かっています。

Img_9058_b

その橋の下に大きな岩があり、「義朝駒飛石」と呼ばれています。

Img_9057_b

源義朝が東国へと落ち延びる最中、難所「千束谷」で、義朝の馬が崖から落ちますが、馬の前足が大石にかかり、一命をとりとめたため、駒止石ともいいます。

また、騎乗のまま飛び越えたともいいます。

応援のポチッのご協力お願いします。wink


人気ブログランキングへ

| | コメント (2)
|

2013年2月27日 (水)

源義朝を追って(1)碊観音寺

12月のはじめ、比叡山から八瀬を目指して、ケーブルに乗りました。

20130213212441365

Img_9042_b

辺りは銀世界

Img_9041_b

雪山とうっすら紅葉の残る山とのコラボです!

20130213212445e1f

Img_9044_b

八瀬ケーブル乗り場から少し北に行った所に、碊観音寺があります。

Img_9048_b

Img_9049_b

源義朝
が平治の乱に敗れ、逃れる途中、比叡山の僧兵から襲われた時に、岩に観音菩薩を刻み、源家の再興を祈願したと伝えられています。

Img_9050_b

当山の御本尊碊観音大士は、往者二条天皇の御砌、源義朝卿、平治元年(西暦1159年)12月下旬、平治の乱に敗れ、斎藤別当実盛、鎌田兵衛正清、頼朝、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、鷲巣源光、陸奥六郎義隆等の郎党を引き連れ(義朝卿の長男頼朝は13才の初陣であった)東国に落ちる路すがら、ここ千束ケ谷がけの峠にて戦いの疲労にて駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちしが不思議にも一寸の傷手もなく身を全うせしにより再び崖をよじ登り、日頃念ずる観音の御慈悲に随喜して峠の大岩に鏃(やじり)を以って観音菩薩の御尊容を刻まれ、源家再興を主従一同共々に願われたのである。(案内板より)

弁財天

Img_9052_b

碊大龍王

Img_9051_b

水子地蔵尊

Img_9053_b

応援のポチッのご協力お願いします。wink


人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

2012年10月23日 (火)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(10)野間大坊

ここまで来たら、ようやく人に出会いました(#^.^#)

野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。

20120830201634ff5_1

白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。

20120830201633960_2

大門はその時建立されたものです。

大門

20120830201634ad8_3

以後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展しました。

本堂

20120830201633cf3_4

20120830201632470_5

20120830202142710_6_2

野間大坊(由来)

天武天皇(673~686)の時、役の行者が草創、聖武天皇(723~749)の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称した。
弘法大師は当寺に留錫、一千座の護摩供養を修し庶民の幸福を祈った。
白河天皇の承暦年間(1077~1081)一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名された。
親筆の金字の妙典八軸を納められた。
源義朝公憤死の地で境内に墓地がある。
又、縁結びの弁財天が良縁を授ける。
建久元年(1190)源頼朝公により、守本尊開運延命地蔵菩薩が奉安された。
守本尊は定期佛師作ではじめ平清盛の母の池の禅尼念持仏であった。
頼朝十三の時平治の乱に敗れてとらえられたが、池の禅尼の命乞いによって助けられ、後天下を治めることが出来た。
その時禅尼地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時当寺に納めた。
尚、頼朝公相伝の延寿の秘法が当寺に伝わっている。(案内板より)

201208302021406c7_7

本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。

鐘楼堂

20120830203234418_8

2012083020323337f_9_4

平康頼の墓

20120830203235093_10

20120830203234cce_11

20120830202141f91_12

伊勢湾の方にある旅館で、源義朝御膳が味わえるそうですよ!

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

2012年10月21日 (日)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(9)血の池

密蔵院から野間大坊へ向かう道です。

2012082815370187b_1

野間大坊は、本堂に着く前に、この血の池が目にと飛び込んできます。

2012082815370058b_2

長田親子に殺された源義朝の首を洗ったとされる池で、国に変事が起こると、池の水が赤くなるといわれています。

20120828153700d03_3 

池といっても、ほとんど水がありませんした。

2012082815370112d_4

地元の人もあまり寄り付かない心霊スポットというのを読みましたが、たしかに名前だけでも不気味なものですよね。(;O;)

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

 

| | コメント (4)
|

2012年10月13日 (土)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(7)密蔵院

密蔵院(みつぞういん)

Img_7170_b Img_7171_b Img_7172_b 

こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。

本堂に安置されている不動明王は鎌倉期の作とされ、その他には「かじとり観音」と呼ばれる如意輪観音などがまつられています。

Img_7174_b

本堂

201208261500165d1 Img_7176_b Img_7175_b

寺の奥には「はりつけの松」があります。(次の記事で紹介します)

由緒

白河天皇の勅願所大御堂寺の一山で宝乗坊と号し、大坊の別当職に対して学頭職の寺であった、宝暦年間に密蔵院と改称した。
本尊不動明王、瀬戸の雲興寺と並んで盗難よけの霊場として有名である。

かじとり観音

Img_7173_b Img_7182_b

霊験あらたかな観音様で交通安全はもとより家庭平和のかじ等諸々のかじをおとり下さって、誰にでもご利益をお与え下さいます。昔から願などかける人多く、赤門は夜も閉めない門となっている。
大御堂一山の古絵図、尾張光友公絵図、長田屋敷跡に出土の弥生式土器
裏山に「長田の磔松」がある。(案内版より) 

不動堂

20120826145259265

弘法堂

20120826150016ad6

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

2012年10月11日 (木)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(6)安養院

安養院(あんよういん)「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」

201208251217068a7_1 20120825121705b7a_2

安養院は承暦年間白河天皇の発願で大御堂寺の一院で、1190年(建久元年)源頼朝公先考菩提の為創建。

こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。

本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩(藤原期の作)、地蔵菩薩

1583年、羽柴秀吉に岐阜城を追われた織田信長の三男・織田信孝が自害した「信孝自刃の院」があります。

辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」を書いた後、腹をかき切って自ら腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたといわれています。
その血の跡が掛け軸に残っていて、掛け軸に描かれた梅の花は、四季折々に色を変えると伝えられているそうです。

何とも恐ろしい(*_*)

信孝の墓は、大御堂寺(野間大坊)にあります。

怒りを込めた辞世の句、血染めの掛け軸や自刃の短刀、自刃の間は非公開ですが、そのパネルを見せていただいたので、写真を撮らせていただきました。

掛け軸の左下が血の跡、手前に置かれているのが短剣です。

2012082512195567b_3

境内の樹齢600年の蘇鉄は、「あいちの巨木」に指定されています。

201208251222130b1_4 20120825122212fe5_5_2 20120825122212d18_6 20120825122212506_7

本堂 

20120825121956567_8

地蔵堂 

20120825121956410_9

この周りも一面田んぼです。

20120825142510895_11

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

2012年10月 9日 (火)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(5)内扇に伝わる話

野間の内扇という地名は「うとげ」と読むそうです。

1159年12月、平治の乱で敗れ、落ち延びた義朝は、大垣の杭瀬川を舟で下り、今の南知多町内海海岸にたどり着き、山伝いに4キロ先の美浜町野間内扇(うとげ)に着きました。

Img_7159_b

そこでは、正月の餅つきの準備をしており、腹のすいた義朝一行は村人が止めるのも聞かずに、餅になるセイロのおこわを、手づかみでほうばったと伝えられています。

そのお礼として、村人に「百合草」の苗字を与えて去りました。

内扇では、義朝を偲んで今でも正月三が日は、モチを食べないそうです。
(あいコンシェルジェより)

乱橋から内扇の集落を望む。

Img_7166_b

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

2012年10月 7日 (日)

源義朝最期の地・野間を訪ねて(4)千人塚

法山寺の西にある千人塚(せんにんづか)

Img_7153_b

仙人塚とも書きます。

Img_7155_b

長田一族と源義朝の家来が戦った時出た死者を埋めたところとも首の無い義朝の胴体を埋めた塚だともいわれています。

Img_7157_b

平治2年(1160)長田父子が源義朝公を謀殺した時に、長田一族が義朝公の家臣、渋谷金王丸、鷲栖玄光らと戦って討ち死した多くの者を集めて、この地に埋めたと言われている。
また首のない義朝公の胴体を埋めたという伝えもある。

この案内板の前に、大河の幟があり、そのために正面から撮影できず、このように右からと左から撮影しました
(^_^;)

せっかくPRするなら、幟の設置場所も考えて欲しいものです。

ここは、湯殿跡よりも、もっと奥まっていて、人気もなく寂しいところでした。
女性一人で訪ねることは控えた方が良いと思います。

応援のポチッのご協力お願いします。wink

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

その他のカテゴリー

イベント | 丹後局 | 亀井六郎 | 京菓子 | 今井兼平 | 今若(全成) | 佐藤継信・忠信 | 北条政子 | 北条氏 | 千葉氏 | 土佐坊昌俊 | 堀河天皇 | 大姫 | 大河ドラマ展 | 安徳天皇 | 富樫泰家 | 小督 | 尼御前 | 山吹御前 | 崇徳院 | 嵯峨天皇 | 巴御前 | 常盤御前 | 平宗盛 | 平康頼 | 平忠度 | 平忠盛 | 平敦盛 | 平時子(二位尼) | 平時忠 | 平景清 | 平業盛 | 平清宗 | 平清盛 | 平盛俊 | 平知盛 | 平知章 | 平経正 | 平維盛 | 平親範 | 平道盛 | 平重盛 | 平重衡 | 平頼盛 | 建礼門院 | 弁慶 | 待賢門院 | 後嵯峨天皇 | 後白河天皇 | 後醍醐天皇 | 文覚上人 | 斉藤実盛 | 日蓮 | 曾我兄弟 | 木曽義仲 | 松尾芭蕉 | 梶原景季 | 梶原景時 | 比企氏 | 法然上人 | 清和天皇 | 渡辺綱 | 湛増 | 源実朝 | 源平グッズ | 源朝長 | 源満仲 | 源為義 | 源範頼 | 源経基 | 源義光 | 源義家 | 源義朝 | 源義経 | 源頼信 | 源頼光 | 源頼家 | 源頼政 | 源頼朝 | 源頼義 | 滋賀のイベント・観光情報 | 滝口入道・横笛 | 熊谷直実 | 熊野御前 | 白河天皇 | 祇園祭 | 祇王・祇女・仏御前 | 義経ゆかりの地を訪ねて | 藤原師長 | 藤原秀衡 | 袈裟御前 | 西行 | 近江路・歴女ブロガーの旅紀行 | 近衛天皇 | 那須与一 | 金売り吉次 | 長田忠致 | 阿古屋 | 阿波内侍 | 静御前 | 高倉天皇 | 鬼一法眼