八瀬川の少し上流には、義朝一行が東国に落ち延びる際、比叡山の法師に襲われ、家臣の斎藤別当が兜を投げ込み、法師らがそれを奪い合う間に逃げたという甲ヶ淵があります。
比叡山には、信頼や義朝が打ち負けて大原口へ落ちると噂が流れ、延暦寺・西塔の法師どもがこれを聞いて、「いざ、落人を打ち捕らえん」とて、2、3百人が千束ヶ岳に待ち構えました。義朝がこれを聞いて「都にて、兎も角もなるべきこの身が、鎌田兵衛の他愛も無い申し状に従ってここまで落ちて、叡山の僧兵の手に掛かり、甲斐なく死ぬ事こそ口惜しい」と申しました。齋藤別当・実盛が申すには、「ここをば、この齋藤別当が、御通し致しましょう」とて馬より降り、甲を脱いで手に下げ、髪を乱して顔に振り掛けながら、法師らに近寄って申すには、「右衛門督・信頼殿、左馬頭・義朝殿など主なる人々は皆、大内や六波羅にて討死になされた。
我らは諸国から召し出された借り武者どもにて、恥を忍んで妻子を見んがために、本国へ落ち下る所である。それを打ち留めて、罪作りにも何事かなさるお積りか。武具が欲しいなら差し上げよう。されば、ここを通されよ」と申しますと、「彼の申すとおり、大将ではなさそうだ。木っ葉武者を討っても無益なり。武具さえ脱ぎ捨てれば通してやろうではないか」と法師らが詮議すれば、実盛が再び申すには「法師の方々は多勢にて、我等は小勢なり。されば、鎧甲の数が足らぬ。そこで、我等が武具を投げるに従い、奪い取り給えや」と言えば、前面に立つ若法師が、「汝の申す事も、尤もなり。それも面白かろう」とて、法師が集まって来ました。後から来た老僧も我劣らじと押し寄せて来ました。
法師が競い合うところに、実盛が甲を彼らに向って、ぱっと投げ与えました。
我も取らんと揉み合いを始めた法師らは、敵の面前である事をすっかり忘れてしまいました。
源氏の32騎の兵がこの隙を突き、太刀を抜き放ち甲の錣を傾けて、どっと法師の中に駆け入り蹴散らして通れば、法師らは慌てて長刀を取り直し、漏らさず討てやとて追っ駆けて来ました。実盛が髪を振り乱して大童になり、大きな矢を取ってつがえながら「同じ敵でも、相手によるぞ。我は源義朝の郎等にて、武蔵の国の住人・長井の齋藤別当実盛と申す者なり。捕らえんと思はば寄れや、手柄の程を見せようぞ」とて、取って返して、きっと構えれば、法師の中に弓矢の心得ある者はなし、これは叶わぬと思ったのか。皆そこを引き揚げて帰りました。
(平治物語より)
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12月のはじめ、比叡山から八瀬を目指して、ケーブルに乗りました。
八瀬ケーブル乗り場から少し北に行った所に、碊観音寺があります。
源義朝が平治の乱に敗れ、逃れる途中、比叡山の僧兵から襲われた時に、岩に観音菩薩を刻み、源家の再興を祈願したと伝えられています。
当山の御本尊碊観音大士は、往者二条天皇の御砌、源義朝卿、平治元年(西暦1159年)12月下旬、平治の乱に敗れ、斎藤別当実盛、鎌田兵衛正清、頼朝、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、鷲巣源光、陸奥六郎義隆等の郎党を引き連れ(義朝卿の長男頼朝は13才の初陣であった)東国に落ちる路すがら、ここ千束ケ谷がけの峠にて戦いの疲労にて駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちしが不思議にも一寸の傷手もなく身を全うせしにより再び崖をよじ登り、日頃念ずる観音の御慈悲に随喜して峠の大岩に鏃(やじり)を以って観音菩薩の御尊容を刻まれ、源家再興を主従一同共々に願われたのである。(案内板より)
弁財天
ここまで来たら、ようやく人に出会いました(#^.^#)
野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。
白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。
大門はその時建立されたものです。
大門
以後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展しました。
本堂
野間大坊(由来)
天武天皇(673~686)の時、役の行者が草創、聖武天皇(723~749)の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称した。
弘法大師は当寺に留錫、一千座の護摩供養を修し庶民の幸福を祈った。
白河天皇の承暦年間(1077~1081)一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名された。
親筆の金字の妙典八軸を納められた。
源義朝公憤死の地で境内に墓地がある。
又、縁結びの弁財天が良縁を授ける。
建久元年(1190)源頼朝公により、守本尊開運延命地蔵菩薩が奉安された。
守本尊は定期佛師作ではじめ平清盛の母の池の禅尼念持仏であった。
頼朝十三の時平治の乱に敗れてとらえられたが、池の禅尼の命乞いによって助けられ、後天下を治めることが出来た。
その時禅尼地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時当寺に納めた。
尚、頼朝公相伝の延寿の秘法が当寺に伝わっている。(案内板より)
本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。
鐘楼堂
平康頼の墓
伊勢湾の方にある旅館で、源義朝御膳が味わえるそうですよ!
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密蔵院(みつぞういん)
こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。
本堂に安置されている不動明王は鎌倉期の作とされ、その他には「かじとり観音」と呼ばれる如意輪観音などがまつられています。
本堂
寺の奥には「はりつけの松」があります。(次の記事で紹介します)
由緒
白河天皇の勅願所大御堂寺の一山で宝乗坊と号し、大坊の別当職に対して学頭職の寺であった、宝暦年間に密蔵院と改称した。
本尊不動明王、瀬戸の雲興寺と並んで盗難よけの霊場として有名である。
かじとり観音
霊験あらたかな観音様で交通安全はもとより家庭平和のかじ等諸々のかじをおとり下さって、誰にでもご利益をお与え下さいます。昔から願などかける人多く、赤門は夜も閉めない門となっている。
大御堂一山の古絵図、尾張光友公絵図、長田屋敷跡に出土の弥生式土器
裏山に「長田の磔松」がある。(案内版より)
不動堂
弘法堂
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安養院(あんよういん)「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」
安養院は承暦年間白河天皇の発願で大御堂寺の一院で、1190年(建久元年)源頼朝公先考菩提の為創建。
こちらも父・源義朝供養のため、源頼朝が建てた寺とされています。
本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩(藤原期の作)、地蔵菩薩
1583年、羽柴秀吉に岐阜城を追われた織田信長の三男・織田信孝が自害した「信孝自刃の院」があります。
辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」を書いた後、腹をかき切って自ら腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたといわれています。
その血の跡が掛け軸に残っていて、掛け軸に描かれた梅の花は、四季折々に色を変えると伝えられているそうです。
何とも恐ろしい(*_*)
信孝の墓は、大御堂寺(野間大坊)にあります。
怒りを込めた辞世の句、血染めの掛け軸や自刃の短刀、自刃の間は非公開ですが、そのパネルを見せていただいたので、写真を撮らせていただきました。
掛け軸の左下が血の跡、手前に置かれているのが短剣です。
境内の樹齢600年の蘇鉄は、「あいちの巨木」に指定されています。
本堂
地蔵堂
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法山寺の西にある千人塚(せんにんづか)
仙人塚とも書きます。
長田一族と源義朝の家来が戦った時出た死者を埋めたところとも首の無い義朝の胴体を埋めた塚だともいわれています。
平治2年(1160)長田父子が源義朝公を謀殺した時に、長田一族が義朝公の家臣、渋谷金王丸、鷲栖玄光らと戦って討ち死した多くの者を集めて、この地に埋めたと言われている。
また首のない義朝公の胴体を埋めたという伝えもある。
この案内板の前に、大河の幟があり、そのために正面から撮影できず、このように右からと左から撮影しました
(^_^;)
せっかくPRするなら、幟の設置場所も考えて欲しいものです。
ここは、湯殿跡よりも、もっと奥まっていて、人気もなく寂しいところでした。
女性一人で訪ねることは控えた方が良いと思います。
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