高野山を訪ねて(7)東塔
東塔は、大治2年(1127年)、白河天皇の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(かくごんのそうじょう)によって創建されました。
本尊は同天皇等身の「尊勝仏頂尊」。
脇侍には「不動明王」、「降三世(ごうさんぜ)明王」がお祀りされています。
天保14年(1843年)の大火災で焼失し、140年後の昭和59年(1984年)に再建されました。
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東塔は、大治2年(1127年)、白河天皇の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(かくごんのそうじょう)によって創建されました。
本尊は同天皇等身の「尊勝仏頂尊」。
脇侍には「不動明王」、「降三世(ごうさんぜ)明王」がお祀りされています。
天保14年(1843年)の大火災で焼失し、140年後の昭和59年(1984年)に再建されました。
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尾道の西国寺は、山門の大草鞋が目印です。
天平年中(729~749)僧行基の開基と伝えられる。
治歴2年(1066)火災にかかり本堂、五重塔などことごとく焼失した。当時の住職慶鑁和尚は、京都仁和寺の性信法親王に師事し、白河院を頼って復興を願い、金堂など七堂伽藍が再建された。官寺として末寺も百数ケ寺を数える備後備中安芸にわたる西国一の大寺となった。
天仁元年(1108)から七帝御国忌の不断経修行が命じられたが、度々武士団の侵略にあって中断し、寺領も尾道浦一円を残すのみとなっていた。
永和年中(1375~1379)再度火災にかかったが、備後の守護山名氏の手厚い外護によって至徳3年(1386)金堂(重文)が再建され、永享年中(1429~1441)までの約60年間に、三重塔(重文)など伽藍が整えられた。
仁王門(県重文)は仁王像ともに室町時代末期の作。
正面の大藁草履は、健脚を願っての奉納である。
(案内板より)
金堂
行基菩薩の開基と伝わります。
度々の火災により焼失し、現在の堂は南北朝期、備後の守護山名一族によって再建されました。
不動明王像
永享元年(1429)足利義教の寄進によって建立されました。 階段の上からは、尾道市街が見渡せます。
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