平清宗

2013年2月19日 (火)

平清宗の胴塚・清宗塚

草津市野路の民家の庭に、平清宗の胴塚と伝える石塔があり、保存供養されています。

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         平清宗
 

平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
                             遠藤権兵衛家
                             当主 遠藤 勉(現地案内板より)

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          清宗塚

 文治元年三月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
 清宗は父宗盛(三九歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年六月二十一日の事、清宗時に十七歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三一歳で殺される。夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。(現地案内板より)

こちらは、南草津病院の敷地内の理事長さん宅なのだそうですが、こうして見学させていただけるのはありがたいことです。

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