熊野の長藤2019(5)能舞台でのイベント
熊野の長藤まつり開催中、能舞台でもイベントが行われます。
なんとこちらはフラダンス!
常磐ハワイアンセンターかと思いました(^_^;
長藤とは関係なくても、観客が楽しんでいれば何でもありですね!
熊野の長藤まつり開催中、能舞台でもイベントが行われます。
なんとこちらはフラダンス!
常磐ハワイアンセンターかと思いました(^_^;
長藤とは関係なくても、観客が楽しんでいれば何でもありですね!
熊野御前の命日とされる5月3日には熊野御前供養祭が行われます。
熊野(左)と熊野の母(右)の墓
手前が熊野の墓
平安の頃、池田の宿に、花のように美しく優しい熊野という娘がおりました。見付の国府に赴任していた平宗盛に見初められた熊野は、やがて都へ上って行きました。
宗盛と幸せな日々を送っていた熊野のもとに、ある日、母の病の報せが届きます。池田へ帰りたいという熊野の願いを、しかし宗盛は愛するあまり放しがたく、聞き入れてくれません。
春、桜見物の席で、熊野は、「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)と詠み、その心に打たれた宗盛はついに別れを決心するのでした。
母娘は、再会を喜びましたが、母の命は長くありませんでした。まもなく愛する宗盛の戦死と平家滅亡を聞いた熊野は、尼となり静かに生涯を終えました。
熊野が祈りを捧げた庵のあとの行興寺の庭には今も母のために熊野が植えた藤の花が、毎年長い花房をつけています。
(豊田町発行「熊野御前」より)
明治時代初期まで、天竜川には橋が架けられていませんでした。
古来、磐田市池田地区は天竜川の渡船場として賑わっており、徳川家康により渡船の運営権が保証されて以来、江戸時代を通じて東西交通の役割をほとんど一手に担い、この地域の経済・文化交流の場として栄えていました。
明治に入り、明治11年(1878)木橋の完成とともに、天竜川池田渡船は長い歴史を閉じました。
平成元年(1989)、渡船保存会を発足し、100年ぶりに渡船が復活し、長藤祭りに合わせ、池田の渡しを再現した渡船体験イベントを実施しています。
「熊野の長藤」は、磐田市池田の行興寺にあり、平安時代、平宗盛に寵愛された熊野御前が植えたとされる推定樹齢800年以上を数える長藤で、国の天然記念物にも指定されています。
熊野の長フジ 国指定天然記念物一本、県指定天然記念物五本
国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1.8㍍もある。
本堂前の境内地にある五本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。
花房が1㍍以上にも伸びて 紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する。親孝行で有名な美女である。
謡曲「熊野」と行興寺
遠江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。
熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞きいれられず、やむなく宗盛に同行しました。
花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄かの村雨に散る花に寄せて、故郷の病母を気遣い
いかにせん都の春も惜しけれど
馴れし東の花や散るらん と
和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。
熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり、「熊野の長フジ」と称せられています。
謡曲史跡保存会
新居町のウォーキングの記事が途中ではありますが、今年も熊野の長藤を見に行って来たので、その記事を先にお届けします。
謡曲「熊野(ゆや)」で有名な熊野御前(ゆやごぜん)の墓がある行興寺。
行興寺に着いた時、ちょうど熊野御前の人形を乗せた山車の引き回しが行われていました。
この方は人間です(^^ゞ
お面を被っていても、表情があって、見入ってしまいました。
白藤はまだ長さが不十分でした。
ここには、昔 遍照山西法寺という寺院がありました。
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謡曲「熊野」と行興寺
謡曲「熊野」と行興寺
遠江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。
熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞きいれられず、やむなく宗盛に同行しました。
花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄かの村雨に散る花に寄せて、故郷の病母を気遣い
いかにせん都の春も惜しけれど
馴れし東の花や散るらん と
和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。
熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり、「熊野の長フジ」と称せられています。
謡曲史跡保存会
熊野御前 熊野御前花見
熊野の長藤
熊野の長フジ 国指定天然記念物一本、県指定天然記念物五本
国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1.8㍍もある。
本堂前の境内地にある五本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。
花房が1㍍以上にも伸びて 紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する。親孝行で有名な美女である。
平成十八年三月 磐田市教育委員会
今年はあらゆる花の開花が早く、この長藤も、例年ならGWが見頃なのですが、二週間ほど早い、開花となったようです。
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今年も熊野の長藤を見に出かけて来ました。
行興寺
「熊野の長藤」は、磐田市池田の行興寺にあり、平安時代、平宗盛に寵愛された熊野御前が植えたとされる推定樹齢800年以上を数える長藤で、国の天然記念物にも指定されています。
この長藤の開花期間の4月下旬から5月上旬にかけて催される、「池田・熊野の長藤まつり」では、能舞台での各種イベントや、池田の渡船の再現、屋台の曳き回しなどがあります。
謡曲「熊野」と行興寺
謡曲「熊野」と行興寺
遠江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。
熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞きいれられず、やむなく宗盛に同行しました。
花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄かの村雨に散る花に寄せて、故郷の病母を気遣い
いかにせん都の春も惜しけれど
馴れし東の花や散るらん と
和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。
熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり、「熊野の長フジ」と称せられています。
謡曲史跡保存会
熊野御前 熊野御前花見
熊野の長藤
熊野の長フジ 国指定天然記念物一本、県指定天然記念物五本
国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1.8㍍もある。
本堂前の境内地にある五本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。
花房が1㍍以上にも伸びて 紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する。親孝行で有名な美女である。
平成十八年三月 磐田市教育委員会
今年はちょうど見頃じゃないでしょうか。
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