平業盛の塚・善光寺別院
市営地下鉄「湊川公園」より12分、市バス「上沢4丁目」より6分、会下山公園の東側を北に進んでいくと善光寺別院があります。
清盛の弟である教盛の三男・平業盛は、17歳でありながら武勇に優れていましたが、夢野の陣も一ノ谷の西城戸の大敗によって撤退を余儀なくされ、逃げ延びる途中、この地で源氏の泥屋四郎吉安と相対し、古井戸に落ち相手を組み伏せたが、弟の五郎重行が馳せてきて業盛を討ち取ったと謂われています。
寿永2年(1183年)7月、源義仲に追われ平家一門が都落ちすると、業盛も父や兄らともにこれに従った。
寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが、源範頼の軍の手にかかり戦死。『平家物語』によると、業盛は常陸国の住人・土屋五郎重行と組んで討たれたとされている。
『源平盛衰記』にはその最期の様子が、以下の通りより詳しく描かれている。即ち、源義経の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛に兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
『吾妻鏡』によると、この戦いで、兄の通盛、教経も討ち死にしている。このうち教経については『玉葉』などに生存説があり、『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語ではこの後の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで大いに活躍している。
2月13日、一ノ谷の戦いで討たれた他の平家一門の首とともに京で獄門に処された。
境内には、平業盛の塚と墓碑があります。
少年武者 平業盛
業盛は清盛の弟教盛の末子である。一ノ谷の戦に平家方は大敗離散し、当年十七歳の少年業盛は緋縅の鎧で連銭葦毛の馬に乗り唯一人行き先を打案しつつ駒を渚に立たせて居た。折柄源氏方泥屋四郎及び其弟五郎が追撃して来たので之を迎えて奮戦し遂に兄四郎と馬上に引き組んで地に落ちはげしく揉み合上に重なったまま古井戸に落ち込んだ。弟五郎は兄の危急を救わんとして業盛の甲の錏を力まかせに引き離そうと焦る。業盛は之を防ぎ○兄四郎を殺そうとして一生懸命である。業盛はまだ少年とは云へ其の大力は大人も及ばぬ位であったので彼が五郎を振り離そうとして首を振ったはづみに甲の緒が引切れ、五郎は業盛の甲を持ったまま二間程も振飛ばされた。併し五郎も去る者で之にひるまず直に立ち上がり業盛の首を打ち取った。少年業盛の剛勇と怪力に敵も味方も其死を惜まぬものはなかった。(案内板より)
境内はよく整備されています。
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