高野山を訪ねて(17)奥之院 曾我兄弟の供養塔
事件は伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる工藤祐経と曽我兄弟の祖父・伊東祐親の所領争いに始まり、伊東祐親の嫡子である曽我兄弟の父・伊東祐泰が工藤祐経によって殺されたことに始まり、成長した曽我兄弟が、兄の十郎が22歳、弟の五郎が20歳の時、仇討ちを遂げました。
兄はその場で討ち取られ、弟は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました。
建久4年(1193)源頼朝が、富士の巻狩りを催した折、曽我兄弟は、頼朝の寵臣になっていた父の仇である工藤祐経を討ち取りました。
兄の十郎はその場で討たれてしまいましたが、弟の五郎は、頼朝の宿所にめざしましたが、頼朝の側近に捕えられました。
翌日尋問が行われます。頼朝は五郎が勇気ある武士だということで助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆願により処刑されました。
一説には、単なる仇討ではなく、背後には北条時政など政治的な背景があり、兄弟が頼朝の命を狙っていたともいわれています。
身延線入山瀬駅から徒歩5分の鷹岳山・曽我寺には、曽我兄弟の墓、位牌、木像があります。
山門をくぐるとすぐに身代わり地蔵尊
参道左手に文殊菩薩像
右手には、三体の地蔵像『一念』『兄弟愛』『親を思う心』が並んでいます。
十郎の愛人・虎御前が弘法大師作と謂われる薬師如来を生涯供養したとことで、770余年前の遺志を継ぎ、新たに薬師如来を安置し祀ったとあります。
この他にも、曽我兄弟の史跡は点在していて、「五郎首洗い井戸」もあるそうですが、時間切れになりました。
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富士宮市上井出に鎮座する曽我八幡宮。
社伝によると、頼朝が曽我兄弟の孝心に感じ、兄弟の英霊魂を祀るよう畠山重忠を遣わし、建久8年(1197)上原の住人渡辺主水に命じて祀らせたと伝えています。
この地は新田四郎忠常の陣所の近く、十郎佑成が討たれた所だと言い伝えられています。
主祭神は応神天皇。相殿として曽我兄弟が祀られています。
応神天皇の尊像は、頼朝の命によって文覚が刻んだものといわれる騎馬像で、兄弟の像は丹波法眼によって刻ませた像とも伝えています。
白糸の滝とは違って、音止めの滝は、水量が多く、ダイナミックな滝です。
高さ約二五メートル、幅五メートル
水量は富士山への積雪、上流部への降水量等により大きく左右されます。
この滝の名前の由来は、建人四年五月二十八日(約八百年前)曾我の五郎、十郎兄弟が父、河津三郎祐泰を工藤祐経に殺された仇を富士の巻き狩りのさいに討とうと考えて祐経の陣屋近くの隠れ岩で相談したさい、近くの滝の音があまりにもうるさくて密談しにくいことを神に呟いたところ、滝の音がピタリと止まり、無事討ち入りの相談ができました。それ以来「音止の滝」とよばれるようになったとの伝説からきています。
近くには、曽我兄弟にちなんだ曽我橋もあります。
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