俊寛の碑
鹿児島市中町の西本願寺別院近くのビルに囲まれたある一角に「俊寛の碑」の石碑があります。
ここは、俊寛が鬼界島に流されるときに船出した場所といわれています。
明治31(1898)年頃、ここが埋めたてられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていましたそうです。
俊寛は、後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、安元3年(1177年)鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わりました。(鹿ケ谷の陰謀)
しかし、多田行綱の密告により陰謀が露見。
藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。
三年後、二人は帰ることを許されましたが、俊寛だけは許しが出なかったため、そのまま島に残り、亡くなりました。
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