畠山重忠邸跡
鶴岡八幡宮の東の鳥居を出ると、住宅地の一角に「畠山重忠邸跡」の碑があります。
ここは、鎌倉幕府成立後、畠山重忠が公務で鎌倉務めの際に居住した邸宅跡です。
畠山重忠邸址
正治元年五月頼朝ノ女三幡疾ミ之ヲ治センガ為当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ
東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス
是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ
大正十二年三月 鎌倉町青年團建
正治元年(1199)5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた丹波時長が京都からやってきました。
吾妻鑑によると、7日に時長が、中原親能の亀が谷の家から治療のために畠山重忠の南御門にある宅に移動したとあります。
この場所が南御門のその家のあった跡です。
畠山庄司重忠 月岡芳年画「芳年武者无類」
重能(しげよし)の子。母は三浦義明の女。系図によれば桓武平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵国畠山庄埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司であった重能からである。
1180年(治承4)石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲(きそよしなか)や平氏の追討、さらに1189年(文治5)の奥州征伐などに戦功をたてた。
その間、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代の押妨事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時の讒言で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。
1190年、1195年(建久1、6)頼朝再度の上洛に先陣を勤めるなど頼朝に仕えた。(コトバンクより)
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