北条時房・北条顕時の邸宅跡
JR鎌倉駅から若宮大路を通って、鶴岡八幡宮に向かって歩いて行くと、とサンリオカフェがあります。
ここは、歴史を遡ると、瀬戸康史さんが演じたトキューサこと北条時房と北条顕時(あきとき)が住んでいた北条時房・顕時邸でした。
この遺跡は、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の西側に面し、鎌倉時代には北条氏の館があったとされる区画に位置しています。発掘調査では、鎌倉時代(13世紀)から室町時代(15世紀)にかけての館の一画と考えられる遺構や若宮大路の側溝が発見されました。
当時の生活面は、地表下1.3m~2.5m の間に5面見つかっています。最下層の第5面は現地表下2.5m にあり、13世紀前半と考えられる溝・土坑・柱穴などが発見されました。第4面は13世紀中頃と考えられ、土丹地形の部分と良質の砂を敷き詰めた部分からなり、木組みを持つ若宮大路の側溝が造られていました。こうしたあり方は第2面まで継続していました。また、若宮大路に直交する小さな溝、漆喰が塗られた井戸・土坑・柱穴なども発見されました。第3面・第2面は13世紀後半から14世紀前半と考えられ、ほぞ穴がある土台材、土留めの側板、倒壊を防ぐ控えの梁を備えた若宮大路の側溝や礎石列、礎板列、囲炉裏などが発見されました。1面は15世紀以降の井戸などが発見されています。(発掘調査速報より)
北条時房
鎌倉中期の武士。北条時政の子。当初は五郎時連と称したが,建仁2(1202)年に時房と改名。
遠江守,駿河守を歴任し,承元1(1207)年には武蔵守になり,建保1(1213)年に相模守に転じた。
承久1(1219)年の源実朝暗殺後には,幕府の使者として京都へ上り,皇子を将軍として鎌倉へ遣わすよう後鳥羽上皇に要請した。
同3年の承久の乱に際しては,甥の泰時と共に大将として京都へ攻め上った。泰時と時房はそのまま京都にとどまり,初代の六波羅探題北方と南方になった。
嘉禄1(1225)年,執権となっていた泰時は,執権補佐に当たる連署の職を新設し,時房を迎えた。
以後,死去するまで連署の地位にあり,泰時の良き相談相手となった。(コトバンクより)
北条顕時
父は実時,母は政村の娘。夫人は遠藤為俊の娘,安達泰盛の娘(如大尼,京都の景愛寺開山),千葉泰胤の娘(六浦嶺松寺の開基)。
鶴岡八幡宮の門前に邸宅を構え「赤橋殿」と呼ばれた。
幕府の引付衆・評定衆を歴任。父実時の志を継ぎ,好学で書籍の書写につとめ金沢文庫の維持に尽力した。(コトバンクより)
北条時房邸跡・小池民部屋敷跡の碑
攝津守小池民部大夫藤原久時は、源頼朝の招請に依り鎌倉に下向し、この地に住んでおり、代々、鎌倉神楽の伝承家として鶴岡八幡宮の社官でした。
後に、この地は相模守連署六波羅探題北条時房(執権北条義時の弟)一族の居館となりました.。
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