修善寺の旅(5)安達盛長の墓
修禅寺の裏側に安達盛長の墓があります。
盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しました。
妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。
盛長の墓は、以前は修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り口に移されたそうです。
源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。物見岡合戦では、預かり囚人の筑前房良心(平家一族)が戦功を立てた。新恩として、陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を給わったと考えられ、子息弥九郎景盛が安達氏の祖に、次郎時長が大曽根氏の祖となる。公式に家来を持つことを禁止されていた流人の時代から、数少ない実質的な従者として身辺に侍っていた盛長は頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の甘縄宅をしばしば訪れている事が記録されている。
正治元年(1199年)1月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年4月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護であることが確認できる。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。
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