昨年の秋、京都御所を見学したついでにある石碑を訪ねました。
京都御所蛤御門を出ると京都ガーデンパレスホテルがあります。
その前に立つ土御門内裏跡の石碑
ここは鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の三代の天皇が約24年間に渡り使用していた里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたもの)があったところです。
10世紀頃は具平(ともひら)親王の邸宅で、12世紀には源師時の邸宅になり土御門第と呼ばれました。
その後火災や台風に遭い倒壊。保元の乱によって廃絶されました。
今ではぽっつりと石碑が残っているだけです。 (源平史跡177選参照)
平安京左京一条三坊九町にあたるこの地(北は上長者町通 南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通)は10世紀頃に村上天皇の皇子・具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫源師時(みなもとのもろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(ふじわらのあきたか)はこの地を買得して内裏を模した最初の里内裏(さとだいり)を営み、鳥羽天皇から崇徳(すとく)、近衛(このえ)と続く3代、24年もの間、天皇の御所となった。この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。
鎌倉・室町時代には清浄華院(しょうじょうけいいん)が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。
江戸時代の寛永12年(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4年(1864)、烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。 明治時代に入った後は転々と所有者が変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。(案内板より)


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