義経ゆかりの地を訪ねて

2016年3月 4日 (金)

壇ノ浦の戦いの戦場に立つ「平家茶屋」

下関の源平ゆかりの地を巡り、お昼時になったので、ランチをいただくことにしました。

前から行きたかったお店に直行!

ふぐ料理と瓦そばのお店「平家茶屋」さんです。

お店のすぐ目の前は、関門海峡

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壇ノ浦の戦いの戦場となった海上
は、ちょうどこの「平家茶屋」の正面あたりといわれています。

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窓からは関門橋、「早鞆の瀬戸」と呼ばれるこのあたりで最も早い潮流が一望でき、一日に4回変わる流れの様子や、海を行き交う船を眺めながらの食事ができます。

私はランチセットをいただきました。

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お刺身、天ぷら、鍋物、小鉢など品数が多く、とても美味しかったです。

ちょうどジャズの生演奏があり、豪華な雰囲気の中で食事ができました。

平家茶屋HP

http://www.heiketyaya.com/

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2007年9月15日 (土)

高倉宮址

京都市中京区東洞院通に後白河天皇の皇子・以仁王の御所跡に高倉宮址碑があります。門が高倉小路に面していたため高倉宮御所と呼ばれていました。

以仁王は源頼政や俊寛たちと平家打倒を企てたが、発覚。
奈良へ逃れる途中に討ち取られてしまう。
しかし、以仁王の令旨は源行家らによって源頼朝や木曽義仲ら各国の源氏が挙兵し、平家滅亡へとつながった。C

2007年8月24日 (金)

土御門内裏跡

昨年の秋、京都御所を見学したついでにある石碑を訪ねました。
京都御所蛤御門を出ると京都ガーデンパレスホテルがあります。
その前に立つ
土御門内裏跡の石碑

ここは鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の三代の天皇が約24年間に渡り使用していた里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたもの)があったところです。
10世紀頃は具平(ともひら)親王の邸宅で、12世紀には源師時の邸宅になり土御門第と呼ばれました。
その後火災や台風に遭い倒壊。保元の乱によって廃絶されました。
今ではぽっつりと石碑が残っているだけです。 (源平史跡177選参照)

平安京左京一条三坊九町にあたるこの地(北は上長者町通 南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通)は10世紀頃に村上天皇の皇子・具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫源師時(みなもとのもろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(ふじわらのあきたか)はこの地を買得して内裏を模した最初の里内裏(さとだいり)を営み、鳥羽天皇から崇徳(すとく)、近衛(このえ)と続く3代、24年もの間、天皇の御所となった。この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。
  鎌倉・室町時代には清浄華院(しょうじょうけいいん)が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。
  江戸時代の寛永12年(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4年(1864)、烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。 明治時代に入った後は転々と所有者が変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。(案内板より)

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2007年8月11日 (土)

浮島十三重石塔

宇治川に浮かぶ塔の島には高さ15mの浮島十三重石塔がそびえています。この塔は鎌倉時代、宇治橋の架け替えに際して奈良・西大寺の叡尊によって建立されました。
叡尊は橋の流失は魚霊の祟りであると考え、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建てたのでした。

石塔は1756年の大洪水で倒れてしまいましたが、明治になって150年間埋没したものを発掘し再建したそうです。1c 2c

2007年6月14日 (木)

須賀神社

京都の聖護院にある神社で、元は鳥羽天皇の中宮である美福門院藤原得子の御願寺・歓喜光院の鎮守社であった。
境内にある交通神社は、交通や旅行の安全、旅館業の守り神として信仰されている。
また節分の日には烏帽子を被った水干姿の懸想文売りが現れる。
その日に売られる懸想文を鏡台や箪笥に入れておくと美人になり良縁があるというが・・・。

懸想文売りの姿はこちらImg_0442c Img_0444c

2007年4月18日 (水)

醍醐寺(2)豊太閤花見行列

1598年(慶長3年)の春、豊臣秀吉が盛大な「醍醐の花見」を催したことでも名高い醍醐寺。醍醐寺ではこの古事に習い、毎年4月の第二日曜に豊太閤花見行列を催しています。

今年の秀吉役に選ばれた「大日本除虫菊」(大阪市)の上山英介・代表取締役会長が、北政所や淀君役の女性、家臣役を引き連れ、三宝院唐門から約500メートル離れた金堂へ。特設舞台で狂言や舞踊を楽しんだ。(2007年4月9日 読売新聞)よりImg_0179c Img_0195c Img_0200c

2007年3月 3日 (土)

大原(9)沙羅双樹の木

大原で見つけた沙羅双樹の木。

沙羅双樹といえば「平家物語」の冒頭を思い浮かべますね。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

沙羅双樹は釈迦が入滅する時、床の四方にそれぞれ二本ずつ計八本の沙羅の木があり、東西の二双がそれぞれ一樹となり、釈迦の体を覆って白色に変化したという。
沙羅はインドに産する木の名で、梵語で高遠という意味がある。

2007年2月10日 (土)

大原(2)三千院・往生極楽院

三千院の本堂を往生極楽院といいます。
極楽浄土の世界を表現したという往生極楽院は、入母屋造り、柿葺き屋根の阿弥陀堂建築で、重要文化財に指定されています。

幼少の頃の弁慶はその風貌から鬼若と名付けられ、6歳の時に比叡山・延暦寺西塔に預けられましたが、18歳の頃からの乱暴狼藉により比叡山を追われ、このあたりに無人の庵を見つけて住みつきました。
名前を
武蔵坊弁慶とし、僧形になりましたが、悪行は治まらず、また追い出されていました。26_c 15_c_1(源平史跡177選参照) 8c

2007年2月 8日 (木)

大原(1)三千院

紅葉の季節、大原を訪ねました。
まずは天台宗の門跡寺院である三千院からスタートです。
三千院は、伝教大師最澄が比叡山に開いたお堂が始まりで、後に梶井御殿として栄えた名刹です。
池泉観賞式庭園の聚碧園は江戸時代の作で、春は花の庭、秋は紅葉美しい庭となります。2c_55 4c_9 10c_2
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2007年2月 6日 (火)

貴船神社(6) 貴船と鉄輪(かなわ)伝説

貴船神社は、心願成就信仰としての「丑ノ刻詣」でも知られています。
昔、宇治の橋姫が丑ノ刻詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとに作られたのが謡曲「鉄輪」です。橋姫が頭にのせた鉄輪を老いた鉄輪掛石が貴船口駅の傍らにあるそうです。
丑ノ刻詣りというと、単に呪いをかけるというイメージがありますが、本来は貴船明神が貴船山にご降臨されたのが「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」であったということから、心願成就の参拝方法であったということです。(謡曲史跡保存会の看板を参照)

また縁結びの貴船神社に対して宇治の橋姫神社は縁切りの神様として知られています。

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