源義経

浄瑠璃姫と義経

昨年秋、久しぶりに鳳来寺に行ったので、浄瑠璃姫と義経」の彫像のところまで行ってみました。

Img_1895

平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。


義経                   浄瑠璃姫
Img_1896 Img_1897                


数年前に見たときも思ったのですが、あまりに芸術的過ぎて、理解できなかったのですが、この苦しみもがいている様子が、二人の悲恋を表しているのでしょうか。


Img_1899

浄瑠璃姫と義経  

 平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作の里に、兼高長者という金持ちの権力者が住んでいました。長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた、浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。
 姫が15歳の春、平家の目を逃れ、藤原氏を頼って奥州へ向かう義経が、源氏とつながりのある兼高長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。
 「半年たったら、鳳来寺の千寿峰(せんじゅがみね)で私を待て」と言った義経の言葉を信じて、姫は乳母とともに千寿峰に来て、麓の笹谷(ささだに)に庵をつくって住みました。ある日、義経が通るといううわさを聞き、往来まで出て道行く人にたずねると、もう義経は通り過ぎてしまったということでした。悲しんだ姫は庵のほとりで自害してはかない一生を終えました。
 今も千寿峰の西の山の中に、浄瑠璃姫をまつる祠があります。(案内板より)

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

 

| | コメント (2)
|

豊功神社から望む満珠・干珠島

櫛崎城趾の碑から坂を登って行くと豊功神社にでます。

Img_2173 Img_2174

明治元年(1868年)、旧藩主毛利家の霊屋として創建されました。
 
祭神は応神天皇、武内宿禰(すくね)、大国主大神穂田元清、毛利秀元、毛利光広、毛利綱元、毛利元朝、毛利元矩、毛利匡広、毛利師就、毛利匡敬、毛利匡満、毛利匡芳、毛利元義、毛利元運、毛利元周、毛利元敏歴代の長府藩主を祭神としています。

大正6年(1917)6月、長府藩初代藩主・毛利秀元以下を祀った豊功社を忌宮神社境内から移して、それまであった櫛崎・松崎・宮崎の各神社を合祀し、豊功神社となりました。

本殿は昭和44年焼失しましたが、平成13年11月10日に再建されました。 

龍神社
Img_2192 201601031651113a8

七福神社
20160103165033194 201601031650314d9

豊功神社の境内からは満珠・干珠を一望できます。

Img_2175

満珠島・干珠島
Img_2180

壇之浦の合戦前、源氏軍は、この島の周辺に本陣を構えたといわれています。


「日本書紀」の仲哀紀に登場するこの無人島は、忌宮神社の飛地境内で、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もあります。 

原始林は、大正15年10月20日天然記念物に指定されています。

Img_2176

二島は至近距離にあり、伝説ではどちらが満珠島か干珠島かはっきりしていませんが、忌宮神社では沖の大きい方を満珠島、岸に近い小さい方を干珠島と呼んでいるそうです。

豊功神社は初日の出の名所としても有名です。

201601050001160d9 Img_2177

祈願の鐘
Img_2184 Img_2186 Img_2197 201601031648346cb

Img_2198


応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ


| | コメント (6)
|

櫛崎城址(下関市長府)

下関駅からサンデン交通バスの長府、小月方面ゆきバスに乗車して、松原バス停下車。

豊功神社に向かう途中、豊浦高校のグラウンド沿いに櫛崎城址の石垣と案内板があります。

Img_2207 Img_2206
Img_2169

櫛崎城は、関門海峡を望む要衝として、周防灘に突き出した半島の高台に築かれた城で、串崎城、雄山城(かつやまじょう)、長府城、長府陣屋とも称していました。
串崎の名は、鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから “首崎” が転化したものだと言われています。

当時の城域は北側の豊功神社に至るまでであったと考えられています。
当時の城郭図巻によると松崎口・浜之坂口・三軒屋口に櫓があり、櫛崎城趾の石碑が建てられている付近が松崎口(大手門二重櫓)の跡とみられています。
居館(政庁)跡地は、山口県立豊浦高等学校の敷地となっています。

Img_2167 Img_2170

早くからこの地には、地の利を活かした海上勢力の拠点がありました。

源平合戦においても、源義経が頼んだのは串崎船で、その力を借りて、壇ノ浦の合戦で勝利を収めたといいます。


櫛崎城址石垣 長府宮崎町
 櫛崎城(串崎城とも書く)は遠く天慶3年(940)西海に勢力をふるった藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが 確かな記録はなく 一応大内氏の重臣 内藤左衛門太夫隆春が築城したものとされている
後 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦において豊臣方に荷担した毛利氏は 防長二州に減封され これにともなって 山口に居を
構えていた毛利秀元公が長府藩五万石の支藩としてこれを再築し入城 爾来 雄山(かつやま)城と称した
 元和元年(1615)に徳川幕府の定めた一国一城の令によってとりこわされ 隣接する県立豊浦高等学校の敷地に居館を置いた 当時の城郭図巻によると松崎口 浜之坂口三軒屋口に櫓建てがあり 現在櫛崎城址の石碑が建てられているあたりが 松崎口で大手門二重櫓の跡とみられている
   平成5年3月 長府観光協会

櫛崎城の歴史
天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが詳細は不明である。

戦国時代に大内氏の重臣内藤隆春が築城し、「温故私記」によると永禄12年(1569年)9月に、内藤氏家臣の勝間田盛長を城番として置いている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二州に減封されたため、山口城に居を構えていた毛利秀元が支藩の長府藩の居城として改修し雄山城と称した。

しかし、元和元年(1615年)に江戸幕府の定めた一国一城令によって取り壊され、隣接地に居館を置いた。幕末の外国船との戦いに備えて築いた勝山御殿に移るまでの約250年、長府藩の政庁であり、藩主の居館であった。

幕末には攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。真鍮砲3門と木砲4門が配備されていたが、四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864年)8月9日、戦利品として持ち去られた。(Wikipediaより)

 

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

火の山公園

火の山ロープウエイで火の山公園へ。

Img_2032 Img_2038

Img_2056 Img_2055

火の山は、瀬戸内海国立公園の一角に位置する標高268mの小高い山で、山頂からは、源平最後の戦いの場となった壇之浦古戦場満寿・干寿の島をはじめ関門海峡を一望することができます。            

Img_2039 Img_2040

Img_2042 Img_2045

「火の山」という名前は、かつて山頂でのろしを上げていたことに由来しているそうです。

また、夜景は1000万ドルの価値があると言われています。

私は、10年前に夜景を見たことがありますが、それはそれは絶景でした。

山頂展望台には回転展望レストランや土産品の売店もあります。

そして義経さまと平知盛さまの顔出し看板も!

Img_2041

今年も今頃は、桜が満開でしょうね。

Img_2033 Img_2035

(2015.3.30撮影)

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

 

| | コメント (4)
|

源義経が戦勝祈願を行った大歳神社

平家追討のため西国へ下った源義経が、戦勝祈願を行った大歳神社

義経は平家が布陣する彦島を望む有明山(大歳山・円山)に富士の小松を植え、篝火を焚き、戦捷祈願をし、神前に捧げた桑の弓を以て、開戦の矢文を平知盛の率いる平家軍に放ちました。 平家軍は急遽壇ノ浦に軍船を進めて戦ましたが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍の挟み撃ちに遭い、義経率いる源氏軍は、義経率いる源氏軍の勝利となりました。

翌年の文治2年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願のありさまを畏敬して神祠を祀ったことが大歳神社の由来となりました。 以来、武運長久の神として明治維新の際には奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納されました。

Img_1758

大鳥居は文久2年(1862年)に白石正一郎が攘夷必勝を祈念して奉納したものです。

Img_1759

この104段の急な階段を上ったところに社殿があります。

Img_1757

源義経は文治元年、有明山(現JR下関駅辺りの線路敷)にて大歳御祖神のご神霊を祀り、平家追討の戦捷の祈願を捧げました。  現社殿は昭和十五年に当地に遷座されました。当時の階段は一二三<ひふみ>段築きお祓い坂としての祈りを込めました。(現在はその数を留めていません。)  社殿の左面には黒御影石に源義経が弓矢を引く姿を画碑に留めています。その雄姿をお守りに印し「勝守」として授与しております。


Img_1761

大歳神社

御祭神 木花咲耶姫神・大歳神 御歳神・若歳神

ご由緒  寿永4年(1185年)、平家追討の任を受けた源義経は、壇乃浦の合戦に望んで、己が武運の守護と頼む富士浅間の大神の神助を請い、敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山の山麓に小松(富士川の合戦以来担いできた「富士の小松」)を植え、篝火を焚き、七日七夜の斎戒を修め、戦捷祈願をした。その後、神前に捧げた桑の弓を以て、開戦矢文を対岸の平家の布陣に射込んだ。平家統帥の知盛はこれに驚き壇乃浦に軍船を進めた。壇乃浦には範頼の部隊が待機しており、義経軍との挟み撃ちに合い、敢えなく平家は滅亡したと伝えられる。 翌文治2年(1186年)に、付近の漁民が神を祀ったのが大歳神社の起源と云われる。武運長久の神としてのご神威は年を追って光輝き文久3年(1863)奇兵隊の発足に際し、高杉晋作は旗揚げの旗を大歳神社に奉納、また白石正一郎は攘夷必勝を祈請して大鳥居を奉納した。 明治7年(1874)、村社に列せられる。 昭和15年(1940)関門鉄道トンネル工事の際、社地は鉄道線路敷地に接収され現在の小山に遷座された。

Img_1762 Img_1763 Img_1765 Img_1769


「義経戦捷の弓」画碑
Img_1764

「平家追討のため西下した義経は、平家の本陣彦島と対峙する有明山(竹崎町)に大歳神を祭り、桑の木で弓矢を作り、神前に供えたのちその矢を彦島に向けて射込み、戦勝を祈願したことから、のち地元の人たちがその地に大歳神社を創建したという。」

七卿潜寓の画碑
Img_1773 Img_1774 

正二位中納言三条西季知卿(さんじょうにしすえともきょう)(52歳)
従三位中納言三条実美卿(さんじょうさねとみきょう)(27歳)
正四位下近衛少将東久世通禧朝臣(ひがしくぜみちとみあそん)(32歳)
従四位上修理権太夫壬生基修朝臣(みぶもとながあそん)(29歳)
従四位下侍従四條隆謌朝臣(しじょうたかうたあそん)(36歳)
従四位下右馬頭錦小路頼徳朝臣(にしきこうじよりのりあそん)(27歳)
従五位下主水正沢宣嘉(さわのぶよし)(29歳)

この画碑は三条実美卿を始め、七卿が政変を避け、京都の妙法院を蓑笠姿にて長州へ下向する様子を(画碑に)写刻したものである。 氏子の豪商にて国学の見識高き白石正一郎邸に潜寓せられた縁をもって、氏神の大歳神社の境内に大正4年、関門史談会が建立して、後世に七卿の偉業を顕彰せんとしたものである。 この画碑の損傷が著しい由は、昭和15年の大歳神社の遷座に伴い、移築する筈の画碑を二十余年、野ざらしにして放置したことに起因する。 文久3年(1863)8月、会津・薩摩両藩の公武合体派の画策により、攘夷を主張する三条実美卿ら急進派の公卿が京都を追われた。 これが後に伝える「七卿の都落ち」である。 当時長州藩は関ヶ原合戦以来の汚名の返上を一日千秋の思いで伺っていた。 ペリーの来航により、通商条約の締結は幕藩体制の権威失墜を招き、奮起した長州藩の志士達を触発して攘夷思想を駆り立てた。 ところが、四国連合艦隊との下関戦争に加え、第一次長州征伐に敗北を喫した。正に内憂外患の折り、七卿の存在は「錦の御旗」に代わる存在であった。 高杉晋作等の功山寺決起によって攘夷倒幕思想が主流となり、藩内を二分した俗論党を一蹴した。以後、長州藩は維新回天の大業を成し遂げる数々の足跡を印した。 この功績は七卿の西下に負うこと顕著である。 卿は、三位以上の称号であるが他の五名も卿に列せられ七卿と尊称される。

Img_1772

蛭子・八坂神社
Img_1766 Img_1767

正一位五社稲荷神社
Img_1771

境内からの眺望
Img_1768

昔はここから海を見渡せたそうですが、今はビル群に遮られています。

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

みもすそ川公園(1)源義経&平知盛像

下関のみもすそ川公園は、源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦に面し

Img_1986

源義経の八艘跳び、平知盛の錨を担いだ姿の像があります。

Img_1987

源義経
Img_1992 Img_1996

平知盛
Img_1990 Img_1991

また、NHK大河ドラマ『義経』出演者の銅板手形があります。

滝沢秀明さん(源義経役)    中越典子さん(建礼門院徳子役)
Img_1993 Img_2000

小泉孝太郎さん(平資盛役)   松坂慶子さん(二位尼役)
Img_1999 Img_1989

以前ここに来たのは、2005年の「義経」の放送された年でした。

あれから10年経ちましたconfident

久し振りに義経さまに会えて感動heart02

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

 

| | コメント (6)
|

浄瑠璃姫の伝説を追って(11)源義経硯水跡

蒲原の駿河モータースの横に義経硯水跡があります。

ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、蒲原一族初代・清實以後と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。

Img_8929_yoshitsune Img_8930_yoshitsune

1174年(承安4年)源義経が東に下る時にこの菩提所の涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙を書いたといわれています。
手紙を読んだ浄瑠璃姫は、義経を追いかけて来たのですが、病で倒れこの地で亡くなりました。

Img_8931_yoshitsune Img_8932_yoshitsune2

1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ、義経硯水の水をイボにつけると、イボが落ちるという霊験を願って参拝者が絶えなかったのですが、旅人に持ち去られ、36代勝則によって再建されました。

1933年(昭和8年)国道工事のため、墓地は北に移り、面積は縮小し、現在の形となりました。
残念ながら涌き水は涸れてしまいました。

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

| | コメント (5)
|

浄瑠璃姫伝説を追って(1)鳳来寺

鳳来寺山表参道の入口を少し登ったところに、「浄瑠璃姫と義経」の彫像があります。

1b

平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。


義経                 浄瑠璃姫
2b 3b

あまりにアートっぽい作品で、私には人には見えませ~ん(^_^;)

C

浄瑠璃姫と義経  

 平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作の里に、兼高長者という金持ちの権力者が住んでいました。長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた、浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。
 姫が15歳の春、平家の目を逃れ、藤原氏を頼って奥州へ向かう義経が、源氏とつながりのある兼高長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。
 「半年たったら、鳳来寺の千寿峰(せんじゅがみね)で私を待て」と言った義経の言葉を信じて、姫は乳母とともに千寿峰に来て、麓の笹谷(ささだに)に庵をつくって住みました。ある日、義経が通るといううわさを聞き、往来まで出て道行く人にたずねると、もう義経は通り過ぎてしまったということでした。悲しんだ姫は庵のほとりで自害してはかない一生を終えました。
 今も千寿峰の西の山の中に、浄瑠璃姫をまつる祠があります。(案内板より)

B 28b

26b 25b

ここは、2005年の11月に行ったのですが、紅葉が素晴らしかったです。

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

| | コメント (6)
|

四天王寺の義経よろい掛け松

大阪の四天王寺に義経ゆかりの松があります。

文治元(1185)年、義経が京を逃れ、大物浦から西国に向かおうとした時、一行の船が難破し、和泉国に流れ着きました。

ここから吉野山に逃れる途中、追っ手を逃れ、四天王寺で休息し、松の木に鎧を掛けたことから「義経鎧掛けの松」と呼ばれています。

四天王寺

Img_3798_b Img_3809_b Img_3813_b

義経鎧掛けの松

Img_3819_b Img_3820_b

Img_3821_b Img_3818_b

特に説明板などはありませんでした。

応援のポチッのご協力お願いします。wink

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村


偉人・歴史人物 ブログランキングへ

| | コメント (4)
|

牛若丸と弁慶が主従の誓いを立てた寿延寺(洗い地蔵)

東山区大黒町にある寿延寺は洗い地蔵で有名なお寺です。

Img_9101_b

洗い地蔵(浄行菩薩)

Img_9109_b

諸病平癒の御利益があるそうで、自分の身体の悪いところと同じ場所をタワシでゴシゴシと洗います。

十禅大明神

Img_9102

本堂


Img_9103_b

中央に釈迦如来と多宝如来を、その右に大黒天、左に鬼子母尊神をお祀りしています。

大黒天

Img_9106

伝教大師作と伝えられる油涌(あぶらわき)大黒天を祀り、門前から南へ続く現在の大黒町通の名称の由来となっています。

鬼子母尊神

Img_9107


妙見堂

Img_9104

妙見菩薩を祀り、厄除開運の霊験あらたかな守護神として人々の信仰を集め、特に眼病に効果があるといわれています。

寿延寺は、十禅師の森の旧跡で、で、牛若丸と弁慶が主従の近いを立てたところといわれています。

境内中庭には、五条大橋旧跡の碑があると聞いて来たのですが、見逃してしまったようですbearing

六波羅蜜寺からこちらに向かう間に、何人かの町の方に寿延寺の場所を尋ねたのですが、知らないと言われ、なかなか辿りつけず、近くの不動産屋さんに聞いてやっとわかった次第です。たぶん洗い地蔵さんと言えばすぐにわかったのかもしれませんね(^_^;)

応援のポチッのご協力お願いします。wink


人気ブログランキングへ

| | コメント (3)
|

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

イベント | 丹後局 | 亀井六郎 | 京菓子 | 仁田忠常 | 今井兼平 | 今若(全成) | 伊東祐親 | 伊東祐隆 | 佐藤継信・忠信 | 八条女院 | 八重姫 | 北条政子 | 北条時政 | 北条氏 | 千葉氏 | 土佐坊昌俊 | 堀河天皇 | 大姫 | 大庭景親 | 大河ドラマ展 | 安徳天皇 | 富樫泰家 | 小督 | 尼御前 | 山吹御前 | 崇徳院 | 嵯峨天皇 | 巴御前 | 常盤御前 | 平宗盛 | 平康頼 | 平忠度 | 平忠盛 | 平敦盛 | 平時子(二位尼) | 平時忠 | 平景清 | 平業盛 | 平清宗 | 平清盛 | 平盛俊 | 平知盛 | 平知章 | 平経正 | 平維盛 | 平親範 | 平道盛 | 平重盛 | 平重衡 | 平頼盛 | 建礼門院 | 弁慶 | 待賢門院 | 後嵯峨天皇 | 後白河天皇 | 後醍醐天皇 | 後鳥羽上皇 | 文覚上人 | 斉藤実盛 | 日蓮 | 曾我兄弟 | 木曽義仲 | 松尾芭蕉 | 梶原景季 | 梶原景時 | 比企氏 | 法然上人 | 浄瑠璃姫 | 清和天皇 | 渡辺綱 | 湛増 | 源実朝 | 源平グッズ | 源朝長 | 源満仲 | 源為義 | 源範頼 | 源経基 | 源義光 | 源義家 | 源義朝 | 源義経 | 源頼信 | 源頼光 | 源頼家 | 源頼政 | 源頼朝 | 源頼義 | 滋賀のイベント・観光情報 | 滝口入道・横笛 | 熊谷直実 | 熊野御前 | 白河天皇 | 祇園祭 | 祇王・祇女・仏御前 | 美福門院 | 義経ゆかりの地を訪ねて | 藤原師長 | 藤原秀衡 | 袈裟御前 | 西行 | 近江路・歴女ブロガーの旅紀行 | 近衛天皇 | 那須与一 | 金売り吉次 | 長田忠致 | 阿古屋 | 阿波内侍 | 静御前 | 高倉天皇 | 鬼一法眼 | 鳥羽天皇