源頼朝

2024年2月26日 (月)

本覚寺 頼朝ゆかりの夷堂


鎌倉駅からほど近い本覚寺は、身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれています。

現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂がありました。
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この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものでした。

文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていました。

その後の永享8年(1436年)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したといいます。
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本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、不況を再開した際に住まいにしたと伝えられます。
その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、見延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「目を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。

本堂
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八角形の建物が目印の「夷堂」
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前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されましたが、明治の神仏分離令によって、寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ)となりました。

昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建されました。

山門を外に出たところに流れている川を滑川といい、その川に架けられているのが、夷堂橋です。
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この橋は鎌倉十橋の一つに数えられ、この橋のあたりに、かつての夷堂があったそうです。


本覚寺の「にぎり福」は、頼朝が御所の鬼門の守護神とした夷神に由来する縁起物の愛・健・財・学・福の5つを握り込んだお守りのことをいい、 毎朝、握ると願い事が叶うといいます。
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2024年1月28日 (日)

法華堂跡(2)源頼朝の墓

現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。

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堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス
      
 大正十三年三月建   鎌倉町青年團


白旗神社の社殿が立つ場所から北側の石段を登った所に、源頼朝の墓とされる石塔があります。

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君出でて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり

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歌碑は我が国中世史の権威であり、源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。

戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不世出の英雄源頼朝公を讃えたものである。

顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。

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頼朝公石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道 安永八年乙亥二月薩摩中将重豪建之

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 源頼朝は、治承4年(1180年)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185年)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。

 正治元年(1199年)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一体がその跡です。

 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされています。

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国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。

治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。

建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。

平成24年3月   鎌倉市教育委員会


小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝墓と北条義時墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。

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源頼朝墓とされる石造りの層塔は、頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。

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安永8年(1779年)に島津重豪により頼朝の墓の整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されたことが記されています。

なお、現在の層塔は平成元年(1989年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理・再建したものです。

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2023年10月10日 (火)

大蔵幕府跡

大蔵幕府(大蔵御所、大倉幕府)は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった
源頼朝の邸宅で、1180年(治承4年)から1219年(承久元年)までの39年間、あるいは1225年(嘉禄元年)までの45年、鎌倉殿の御所でした。

現在の清泉小学校とその周辺の住宅街が所在地とされています。

大蔵幕府跡
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今ヲ距ル七百三十七年ノ昔 治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ營ミ後覇權ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク 所謂大蔵幕府是ナリ 爾来頼家 實朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ 幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ
                大正六年三月建之  鎌倉町青年會



侍所、公文所 (のちの政所)、問注所を設置し、政庁でもありましたが、1219年に焼失してしまいました。

以来、再建されず、現在は石碑のみがかつての大蔵幕府の中心を示しています。

東御門跡の碑
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大蔵幕府には四つの門があり、門の名は、方角によって名づけられていました。
東にある門を東御門といい、今、地名となっています。
法華堂の東方にあたるこの一帯を、門の名にちなんで東御門といいます。


源頼朝は治承4年(1180年)8月に挙兵し、10月に鎌倉入りして拠点を大倉に定め、大庭景義を担当として新たな館の建設が行われた。当初は父源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が候補地であったが、手狭であり義朝の菩提を弔う寺院もすでに建てられていた事から、大倉の地(東西約270メートル、南北約200メートル程度の方形の敷地)になったという。この地が選ばれたのは、大倉が鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの地であった事と、四神相応の地であった事があげられる。

廊内(敷地内)には、寝殿、対屋、侍所、厩などがあり、東・西・南・北に門がある一般的な貴族の寝殿造であった。頼朝配下が控えていた侍所は貴族の邸宅のそれの2倍の大きさの18間(約37.8メートル)、厩は15間(約31.5メートル)で奥州の名馬30頭を収容できる規模であり、武家の総帥の邸宅としての特徴が見られる。そしてその近辺には御家人の宿館が立ち並んでいた。御所内には御寝所などの私的な区域と、公的な区域があり、政務は問注所や評定を行う西中門廊、内厩侍上などで行われた。

頼朝は同年12月12日に上総広常の邸を出て、完成した新亭に入る儀式が行われた。多くの武士たちがこれに従い、出仕の場である侍所には311人が2列に居並び、侍所別当に任じられた和田義盛が帳簿に出欠を記録した。『吾妻鏡』は「これから以降、東国の人々はみな、頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。」と記している。それまで鎌倉は漁民や農民のみが住む辺鄙な所であったが、この時に道を整えて村里に名前をつけ、家屋が建ち並ぶようになったという。
(Wikipediaより)


頼朝が行なった鶴岡八幡宮の放生会を描いた月岡芳年の浮世絵。

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由比ガ浜で千羽の鶴を放ったと言われる。(Wikipediaより)

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2023年5月28日 (日)

源頼朝ゆかりの滝山寺(5)宝物館

前回、見学できなかった滝山寺宝物館にやっと入れました!

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そもそもこの滝山寺に行ったのは、宝物殿に安置されている寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像像を見たかったから。

これらの像は、鎌倉時代の運慶湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。

像を作らせたのは、源頼朝の従兄弟にあたる当山住職・寛伝

頼朝の追善供養のために境内に惣持禅院を建立し、その本尊と脇侍として祀られていたといいます。

中でも、聖観音は、頼朝と等身大で作られ、その胎内には、頼朝の遺髪、歯を収めたといい、X線写真にはその映像が収められているといます。

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(画像:滝山寺リーフレットより)

 

以前、TV番組でもその撮影風景が取り上げられていました。


Wikipediaによると、

「木造観音菩薩立像及び梵天・帝釈天立像

像高は観音像174.4cm、梵天像106.5cm、帝釈天像104.9cm。

観音像は胸前に両手で蓮茎を捧持する。

梵天像は四面四臂像。

帝釈天像は右手に独鈷杵(とっこしょ)を持つ。

帝釈天像は金色で、観音像と梵天像は肌色である。像の脇侍に梵天・帝釈天を配するのは、宮中清涼殿に安置されていた「二間観音」と同様の構成である。

これらの像は、寺の縁起によれば、鎌倉時代の僧・寛伝が、母方の従弟にあたる源頼朝の追善のため、仏師運慶・湛慶父子に作らせ、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)に完成、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納入したという。

X線撮影の結果、観音像の像内、口の辺に人間の歯らしきものが固定されているのが確認されている。

この三尊像は、近世の彩色で覆われているが作風等から伝承どおり運慶一派の作と認められている。」


滝山寺公式HPはコチラ

http://www.takisanji.net/jihou.html

 

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滝山寺本坊


毎年、旧暦正月の7日に近い土曜日に、鎌倉時代から続く「瀧山寺鬼祭り」が開かれ、運慶作の面をかぶった鬼と暗闇の中を乱舞する火祭りが行われるとか。

それもまた見てみたいものです。

 

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2023年5月 9日 (火)

源頼朝ゆかりの滝山寺(4)日吉山王社本殿

滝山寺本堂の北側に「日吉山王社本殿」があります。

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七間社流造、桟瓦葺(元檜皮葺)

1608年に徳川家康が建てたと伝えられています。

内陣の造りが七間社以上の流造にみられる連結方式ではなく、身舎を横長一室の内陣として奥に簡素な祭壇を設けている点が特徴。

2006年(平成18年)12月21日、岡崎市指定文化財に指定されました。

老朽化により、2019年(平成31年)4月から修復工事が行われ、2021年(令和3年)3月、薄い板を重ねた「こけらぶき」屋根の本殿が完成。

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 七間社流造、桟瓦葺(元檜皮葺)。慶長十三年(1608)徳川家康によって建立されたと伝えるが、現在の日吉山王社本殿は、本殿床下の背面板壁内側の「正保二年六月」の墨書、及び斗組、木鼻、蟇股の様式が滝山東照宮のものとほぼ一致することから、正保二年(1645)三代将軍家光の滝山東照宮建立の際に修築されたものと考えられます。

 現在、重要文化財に指定されている七間社以上の流造本殿は全国で九棟ありますが、このうち十一間社と九間社の本殿は、いずれも一間社または三間社を相の間で連結した連棟型社殿です。日吉山王社本殿は全国的にも数少ない七間社流造であり、また七間社以上の流造にみられる連結の社殿ではなく、身舎を横長一室の内陣として奥に簡素な祭壇を付設した平面構成となっている点が特徴です。

 

数年前に訪ねた時は、修復中でしたので、今回完成した本殿が見られて良かったです😊

本堂の裏手に進むと、稲荷神社がありました。

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2023年4月22日 (土)

源頼朝ゆかりの滝山寺(3)滝山東照宮

滝山寺境内の滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされています。

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正保元年(1644年)、徳川家光は徳川家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせたところ、家康もよく訪れていた滝山寺に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建されました。

創建以来、滝山寺が別当職を兼務(別当寺)してきましたが、明治6年(1873年)の神仏分離により、滝山寺の運営から独立して独自の神官が選任され、無格社に列せられました。

大正5年(1917年)白山社、日吉社を合祀。

大正12年(1924年)稲荷社、若一皇子社、荒神社、神明社を合祀。

昭和28年(1953年)11月、本殿ほかが国の重要文化財に指定されました。昭和44年(1969年)より社殿の復元・大修理が行われ、
昭和46年(1971年)に完工。

本殿、拝殿・幣殿、中門、鳥居、水屋が重要文化財となっています。

拝殿
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滝山東照宮

重要文化財 本殿・拝殿・幣殿・中門・鳥居・水屋(付石柵・銅燈籠・棟札)

 滝山寺に伝える由緒書によれば、徳川三代将軍家光が、酒井忠勝、松平右衛門大夫及び龍山寺の青竜院亮盛の三人を召して、「三河の国は徳川家の本国、岡崎城は家康誕生の地で、また、在世の本城であるから、岡崎附近に権現さまを勧請したい。」「幸いにも、滝山寺は古跡で岡崎の要害の地にも当たり、家康が岡崎在城の節、信仰も厚かった霊地であるから、この地に東照宮を勧請するように……」と命じて神社が創建された。

 社地は、滝山寺本堂の東、やや小高い場所を整地し、正保二年(一六四五)五月に着工して、同三年九月に竣工したと伝えられる。

 江戸時代全期を通じて、日光東照宮、久能山東照宮と共に三宮の一つとして崇敬され、権勢を誇っていた。

 社殿は、東照宮風のけん爛華麗な漆塗り及び極彩色が施され、蟇股、手挟みなど江戸時代初期の特徴がみられる。創建以来、江戸時代に七回、近年では昭和四四年から四六年にと度々修理がなされている。

 拝殿の中に、狩野探幽一門の筆になる板地著色三十六歌仙扁額(市指定文化財)が掲げられている。

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2023年4月 9日 (日)

源頼朝ゆかりの滝山寺(2)本堂

滝山寺の三門から本堂へと歩いて行きます。

10分ほどで到着。

本堂へすぐにお参りする場合は、「滝山寺下」の停留所で下車します。

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貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設。

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現在の本堂は、明治43年頃に解体・大修理をしたもの。


寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像は、鎌倉時代の第1の仏師運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。

聖観音像は頼朝公の等身大で、仏身に御髪と御歯が納められています。

岡崎市最古の和様建築物である三門、本堂ともに国の重要文化財です。

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国指定重要文化財
          瀧山寺
建造物 瀧山寺三門 一棟 明治34年3月27日指定
建造物 瀧山寺本堂 一棟 明治37年2月8日指定
彫 刻 木造観音菩薩・梵天・帝釈天立像 三軀
              昭和56年6月9日指定

 瀧山寺は、「瀧山寺縁起」によると役小角の草創といい、保安年中(1120~23)に比叡山の僧仏泉永救が再興した天台宗の寺院である。
 以後本寺は、 古代末期から奈良時代にかけて藤原氏系熱田大神宮司家・三河国守護足利氏とその被官衆といった中央権力と密接する有力な檀家を持つことによって経済基盤を固め、隆盛を誇った。近世では正保2年(1645)将軍家光の命により本堂の隅に東照宮が建立され、幕府の保護のもと繁栄を続けた。
 三門(仁王門)は、文永4年(1267)の建立で、和様建築の伝統を保つ本市現存最古の建築物である。
本堂は、4度目の造営と推定され、様式的に禅宗様の影響を強く受けた南北朝期の建築である。

 観音菩薩・梵天・帝釈天立像は、源頼朝の従兄にあたる僧寛伝が頼朝追善のため本寺域内に建立した惣持禅院に安置したもので、仏師運慶とその一門による制作であるという。

 他に県及び市指定文化財数16件

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五代将軍・綱吉寄進の鐘楼
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立ち並ぶ石灯籠
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2023年3月26日 (日)

源頼朝ゆかりの滝山寺(1)三門

岡崎市滝町にある滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により、役行者が青木川で拾った金色の薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。

山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家の恩恵を受けてきました。

岡崎市最古の和様建築物である三門は、文永4年(1267)、飛騨権守藤原光延が建立したもので、本堂ともに国の重要文化財です。

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三間一戸、入母屋造、こけら葺の楼門

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瀧山寺のHPによると、

門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。

また、三門の大屋根にある尾垂木が一カ所だけ逆さになっており、三門の完成後ある老婆が「内匠の建てしもこの違いがあるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて三門の階上よりノミをくわえて飛び降り、喉元を突いて自害した。その場所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが実を結ぶことはなかったと伝えられる。村人はこの椿を「内匠霊花」と呼び、ここに「飛騨権守藤原光延之塚」を築いた。現在三門の手前(西北)にあるのがそれである。

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この三門は、本堂が建つ伽藍から850m離れた滝町の集落入口に位置しています。

ここから本堂まで滝のせせらぎを聞きながら歩いて行きます。

 

青木川堰堤とガラ紡績
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かつて岡崎は、明治時代に発明された紡績技術「ガラ紡績」の盛んなところでした。
この辺りは三河木綿の産地であり原料が手に入りやすく、乙川、男川、青木川など大型水車を動かすのに必要な水量を持った河川が多かったことがその理由だといわれています。

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2023年3月12日 (日)

長篠荏柄天神社

新城市に鎮座する長篠荏柄天神社の本社は、源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になりました。

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時間の都合で、本殿までは行けませんでしたが、参道と駒札のみ撮影してきました。

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新城市指定文化財

●種別・名称(建造物)荏柄天神社本殿

●所在地 新城市長篠字碁石
●由来

本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。

●構造

一間社流造

こけら萱 正面唐破風付

裄行:1.39m 梁間:1.39m 新城市教育委員会

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荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。

それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。

医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成4年11月

 

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本殿のあるところは、天神山と呼ばれ、長篠の戦いでは、武田軍の陣地になりました。

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天神山陣地 二千人
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。

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2021年10月17日 (日)

駒繋神社(2)源頼朝ゆかりの地名

世田谷区のHPに「馬引沢」「下馬」の地名と芦毛塚の由来が紹介されています。

ずっと古く文治5年(1189年)に源頼朝藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のことです。ここ、蛇崩の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまいました。急いで馬を助けようとしましたが、まもなく馬は死んでしまい、そこで頼朝は馬を沢沿いの地に葬り、その馬が芦毛だったことから芦毛塚と名づけました。頼朝はこの事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢の名がつけられたということです。 この芦毛塚は、今の下馬の地に残されています。


しかし、頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時1人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために、近くの子の神に詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ、幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき頼朝が馬を繋いだ松は、駒繋松(今の松は3代目という)と名づけられ、子の神は駒繋神社と改められたということです。(世田谷区HPより)

 

社殿
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社殿は、昭和38年に竣功した鉄筋コンクリートの流れ造り。明治31年に建てられた旧社殿は、本殿に納められています。


神楽殿
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神楽殿は、明治25年に竣功しました。
毎年のお祭りの時に奉納行事として、地域の民舞連合による民舞が執り行われます。
また、時代劇をはじめテレビ、映画の撮影にロケ地として利用されています。


招魂社
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昭和39年に旧拝殿を移築し、招魂社として創建されました。

御嶽神社・榛名神社・三峯神社
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天保15年(1844)に、五穀豊穣、盗難・火難除、家内安全を目的とした講によりお祀りされました。


稲荷社
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二社の稲荷神社は、本殿の北側南向きの社は、南の方を、南側北向きの社は、北の方をそれぞれ守護していると云われています。
(駒繋神社HPより)

 

 

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