源頼朝

2025年9月20日 (土)

江島神社(7)伝頼朝寄進の鳥居

奥津宮に向かう途中、養和2年(1182)に源頼朝が寄進したといわれ石鳥居があります。

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 伝頼朝寄進の鳥居

 鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣しそのつど信仰上の対象を寄進しています。

 吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とあります。

 現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風で破損し、補修されたものですが、源頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられています。(設置の場所も形も特定できません)。

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2025年8月 3日 (日)

江島神社(3)奉安殿

奉安殿は、辺津宮の南隣にある八角円堂で、妙音弁財天像と八臂弁財天像を安置しています。

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八臂弁財天像は、鎌倉時代最盛期の作と見られる県指定の文化財です。

妙音弁財天像は琵琶を抱えた全裸の坐像で、女性の象徴をすべて兼ね備えているといわれています。

源頼朝は奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請しました。

江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。

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2025年7月 6日 (日)

江島神社(1)三女神をまつる神社

藤沢から小田急江ノ島線で7分、片瀬江ノ島駅で下車。

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『吾妻鏡』には、干潮時、片瀬の浜から江の島まで歩いて渡ったという記載があり、江戸時代には、幕府の高官、歌舞伎役者、職人、火消し、楼主や魚河岸の人々など幅広い階層の参詣者が、干潮時に現れた陸路を歩き、江の島を訪れていたそうです。

『養和2年(1182)4月5日に源頼朝が、北条時政、足立遠元ら御家人を引き連れて江の島に来島、この際弁財天を勧進し、鳥居を建てました。

また、文覚に命じ藤原秀衡の調伏をおこなっています。

明治になって木橋が架けられ、現在の橋(全長389m)は、昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックのヨット競技に合わせ完成したものです。

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片瀬海岸と橋で結ばれた江の島には、古くから信仰を集めてきた江島神社が鎮座しています。

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ご祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が須佐之男命(すさのおのみこと)と誓約された時に生まれた神で、三姉妹の女神様です。

・奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
・中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
・辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)

この三女神を江島大神と称しています。

古くは江島明神呼ばれていましたが、仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるようになり、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として仰がれています。

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瑞心門
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朱の鳥居をくぐり、石段を上がると、龍宮城を模した楼門が現れます。

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2024年7月 1日 (月)

銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてん うがふくじんじゃ)は、鎌倉市佐助にある神社で、境内の洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから、銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)の名で知られています。

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文治元年(1185年)、源頼朝への宇賀福神の夢のお告げを元に、宇賀福神を祀り神仏の供養を行なったのが創建の由来。

頼朝が貧困にあえぐ庶民の救済を祈願したところ、文治元年(1185年)巳の月巳の日の夜、頼朝の夢枕に現れた宇賀福神の「この水で神仏を供養すれば天下太平になる」というお告げにより、この神社を建てたといいます。

その後、北条時頼が銭をここの水で洗って一家繁栄を祈ったことにならい、ここの霊水でお金を洗うと、増えて戻ってくるという信仰が広まりました。

境内には洞窟があり、トンネルをくぐって参拝します。

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奥宮
本宮の横の洞窟。湧き出る清水は銭洗水(ぜにあらいみず)と呼ばれ、鎌倉五名水に数えられています。

洞内には宇賀神と弁財天が祀られ、銭洗い用のざるが用意されており、参拝者はざるに硬貨や紙幣を入れ、柄杓で3杯ほど銭洗水をかけて洗います。

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洞窟を抜けると、鳥居のトンネルとなります。

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ちなみに、お金は「使う派」「使わない派」で分かれるそうですが、使った方が御利益があるとのこと。

お金を清めたとしたら、皆さんはどっち派でしょうか?

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2024年6月22日 (土)

永福寺跡(2) 薬師堂~遣水

鎌倉の永福寺跡薬師堂
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二階堂の北側に建つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺で、南側の阿弥陀堂とほぼ同じ大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54㎝)の上に建てられていました。周囲に縁と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。

北翼廊・北中門
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北翼廊は薬師堂の北側より北に約13.7m、ここで東に折れて東西に約37.3mの規模で池に臨む廊下です。板敷で東端を釣殿にあてていたと考えられます。北中門は北翼廊の北面中央に開かれた間口約4.5m、奥行3.7mの格式の高い四脚門(しきゃくもん)です。

釣殿
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池に突き出す両翼廊の先端には釣殿が設けられていたと考えられます。釣殿は邸宅内の遊宴のための建物で、寺院建築に付随するのは大変珍しく、『吾妻鏡』に2代将軍源頼家が酒宴を釣殿で行ったと書かれています。北翼廊の釣殿では礎石や柱が発掘され、建て替えや火災の痕跡が確認されました。

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遣水
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北翼廊の北側に、谷間の流水を引き込んでつくられていました。発見されたのは素掘りの溝で、長さ約35m、幅は広い所で約3m、狭い所で約1.8m、深さは約20㎝程でした。使われていた多くの景石は抜き取られていました。当時の京都貴族の邸宅内の庭園では、趣を凝らして造られた鑓水が重要な景観となっていました。

※遣水部分の整備では盛土をした上に新たに庭の景色を再現しています。

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堂前の池
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2024年6月14日 (金)

永福寺跡(1)南翼廊・南中門~北複廊

鎌倉市二階堂にある永福寺跡(ようふくじあと)は、源義経藤原泰衡をはじめとする数万の冥福を祈るため、鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した永福寺の跡です。

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造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されています。

建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われました。

当時は、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂が並び建つ壮麗な光景であったそうです。

鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つで、二階建ての仏堂であった事から二階堂とも称されました。

応永12年(1405年)の火災ののち廃絶。

現在、基壇が整備され、寺跡は国の史跡に指定されています。

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  国指定史跡 永福寺跡
 永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂大長寿院を模して建久3年(1192)に、工事に着手しました。
 鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を廃した庭園の跡を確認しました。堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。
 鎌倉市では昭和42年度から土地の買収を行っており、現在史跡公園として整備事業を進めています。

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南翼廊(みなみよくろう)・南中門
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南翼廊は阿弥陀堂の南側より南に約13.4m、
ここで東に折れて東西に約27.7mの規模で発見されました。
板敷で東端が池中に延び、その先に釣殿があったと推測されます。
南中門は南翼廊の南面中央に開かれた間口約4.8m、
奥行き約3.6mの格式の高い四脚門(しきゃくもん)です。

中島
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 大きく南側に広がる池の中程にあり、様々な岩を組み合わせて島を築いています。
島の大きさは、南北に長さ10m、東西に幅5m、高さは1.2mあります
*整備では水を張った池中の島として表示できないので埋め戻して保護しています。

阿弥陀堂
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 二階堂の南側に立つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行きが役12.7mの本瓦葺で、北側の薬師堂とほぼ同じ大きさのお堂です。創建期永福寺の特徴をなす極めて珍しい木製基壇(正面19.2m、奥行き15.3m、推定の高さ54cmm)の上に建てられていました。周囲に緑と雨落り溝、正面には階段が確認されています。

南複廊(みなみふくろう)
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 二階堂と阿弥陀堂をつなぐ幅約6.6mの長さ約12.7mの建物で、
二棟廊ともよばれます。前面が廊、奥が部屋になっていました。


北複廊(きたふくろう)
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 二階堂と薬師堂をつなぐ幅約6.6mの長さ約12.3mの建物で、二棟廊ともよばれます。前面が廊、奥が部屋になっていました。

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2024年6月 4日 (火)

源氏山公園の源頼朝公銅像碑

源氏山は源義家が後三年の役で奥州に向かう際、山頂に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したところです。

源頼朝もこれにならい、平家討伐の際、源氏山の山頂で戦勝を祈願したといいます。

頼朝の鎌倉入り800年を記念して約2mの頼朝像が造られました。

源氏山公園の中央には芝生が広がり、家族連れの憩いの場となっています。

源頼朝公銅像碑
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この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証として有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです
この像が中世日本の政治経済文化の中心として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願うものです

昭和55年10月
源頼朝公銅像建立実行委員会


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私は紫陽花の咲く季節に行きました。

 

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2024年5月23日 (木)

鎌倉最古の寺「杉本寺」

杉本寺は、二階堂にある鎌倉最古の寺とされ、参道途中に苔むした石段があることでも知られています。

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731年(天平3年)東国の旅をしていた行基が、ここが観音様を祀る場所にふさわしいと考え、自ら彫った十一面観音を安置したことから始まり、734年(天平6年)、光明皇后が観音菩薩のお告げにより東国の治安の安定を願い、右大臣藤原房前と行基に本堂を建立させたと伝わっています。

仁寿元年(851年)に円仁(慈覚大師)が参詣し、十一面観音菩薩を自ら刻み安置し、寛和2年(986年)花山法皇の命により源信(恵心僧都)が十一面観音菩薩を自ら刻み安置し、その後花山法皇が巡礼したと伝わっています。

文治5年(1189年)火災で堂宇が焼失した際に御本尊三体自ら庭内の大杉の下に火を避けられたので、それより「杉の本の観音」と呼ばれたという言い伝えがあります。

『吾妻鏡』には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとあり、その時に、御前立の十一面観音菩薩像を寄進したとされます。


ここから長い階段を上っていきます。


仁王門
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茅葺屋根の山門を守る仁王像は運慶作と伝えられています。

大蔵弁財天
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財宝、利得の神、弁天尊をお祀りし、古来より弁天尊をお参りすると大きな蔵が建つ程富に恵まれるという言い伝えがあるそう。

苔むした石段
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※ここは通行禁止です。観音堂へはこの左側の階段を上っていきます。

茅葺きの観音堂(本堂)
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本堂正面には、源頼朝寄進の前立本尊十一面観音様が安置されています。

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杉本寺(すぎもとでら)
鎌倉幕府が成立する500年も前の奈良時代(八世紀)に、行基が開いたと伝える鎌倉最古の寺です。
行基は奈良の大仏造営への貢献や貧民救済の社会事業などで知られています。
その後、光明皇后の寄進で本堂が建てられたと言われています。本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。
坂東三十三観音霊場の第一番札所で、8月10日の縁日は参拝者でにぎわいます。
  ● 宗  派:天台宗
  ● 山号寺号:大蔵山杉本寺(だいぞうざん)
  ● 建  立:8世紀
  ● 開  山:行基
  ● 開  基:光明皇后

観音堂から苔むした石段を見下ろしてみましょう。

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権現堂(熊野大権現、白山大権現)
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もとは白山・熊野三山に祀られる熊野神が勧請されたもの

地蔵尊
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五輪塔群
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鐘楼
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2024年5月12日 (日)

鎌倉の「下馬」の碑

鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路沿いのガソリンスタンドの脇に下馬」の碑が建っています。

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往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ
徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ
今ニ地名トシテ存ス
此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ
屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ
尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日
日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上
鶴岡ニ向ヒ
八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顯ハシタマヘト
大音聲ニテ祈請アリシハ
下馬橋附近ナルト傳ヘラル


鎌倉時代、鶴岡八幡宮に参拝する時は、いかに身分の高い武士であっても、ここで馬を下りることになっていました。

この付近は、若宮大路を横切る時も、馬を下りて鶴岡八幡宮に礼拝しないと通れなかったことから、「下馬」という地名がつけられたのだといわれます。


下馬には、昔は上・中・下の下馬があり、 ここは下の下馬にあたるようです。

江戸時代、 下の下馬には駒止めの柵があり、 八幡宮への馬の乗入れを禁じていたそうです。

明治22年(1889)、横須賀線が開通するまで、段葛はこの下の下馬の四つ辻まで続いており二の鳥居も、この付近にあったともいわれています。


また、幕末のころ、 この付近で乗馬した外国人が浪人に殺傷されるという事件も起きました。

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横浜駐留中のイギリス陸軍第20連隊第2大隊所属のジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34歳)とロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)は事件当日、休暇を取って騎馬で江ノ島~鎌倉を巡遊していた。

2人が大仏の見物を終えて金沢方面に向かう途中、昼七つ時(午後3~4時)頃、若宮大路近くの路上(現在の御成町4丁目付近)で2人の武士に斬りつけられた。

この襲撃によってボールドゥィン少佐は四肢に深傷を受け、特に脇腹から背中にかけての傷が致命傷となり即死。右腕と左膝、首などに重傷を負ったバード中尉は現場近くの民家に運ばれて地元の医師による治療を受けたものの、その夜暮れ四つ(午後10時)頃死亡した。(Wikipediaより)

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2024年5月 4日 (土)

琵琶橋と琵琶小路

鎌倉十橋の一つ、琵琶橋を訪ねてみました。

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鎌倉十橋(かまくらじっきょう)とは、鎌倉を流れる滑川などに架かる橋の中で、古くから重要な交通路にあった橋や、伝説の伝わる十の橋のことです。

江戸時代に『新編鎌倉志』で選定されました。

現在は橋としては残っておらず、碑だけが残っているところもあります。

鎌倉十橋とされたのは以下の10の橋である。

歌の橋
夷堂橋
勝ノ橋
裁許橋
逆川橋
十王堂橋
筋違橋
針磨橋
琵琶橋
乱橋

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琵琶橋と琵琶小路
「日本の道百選」の一つ「琵琶小路(別称若宮大路)」。ここにはかつて擬宝珠のついた朱塗りであった鎌倉十橋の一つである「琵琶橋」が架けられている。
これらの名の由来は、昔この辺り弁財天が祀られ、その祠をさけるように道が弯曲し、その形が「琵琶」の胴の曲線のようだったためであると伝えられている。
その後、源頼朝が妻政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮に祠を移し現在のような一直線の道に直させた。古来より女性に大変縁起深いとされており、転じて縁結び通りとされることがある。

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若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間は琵琶小路とよばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。
昭和30年頃までは擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。琵琶小路の由来は道筋に弁財天をまつる祠がありこのため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。なお、祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。琵琶橋は若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。
また和田合戦の舞台の一つになったという伝承から軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。

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