源頼朝

源頼朝ゆかりの善福寺池(2)遅野井

遅野井というのは、このあたりの旧地名で、善福寺池の湧水「遅乃井」に由来します。

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善福寺池の上の池の西側に、遅野井があり、遅野井碑が建っています。

源頼朝が奥州征伐の帰りにこの地に立ち寄り休憩したのですが、干ばつで水がなく、渇きに苦しみました。

そこで頼朝が自ら弓で地面を掘ったのですが、その水が湧き出し方がとても遅かったことから「遅乃井」と名付けられたという伝説が伝えられています。

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源頼朝ゆかりの善福寺池(1)

東京都杉並区の善福寺公園は、善福寺池を中心に、遊具・遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっています。

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また、善福寺池は善福寺川、また東京都水道局杉並浄水所の水源にもなっています。

善福寺池は、湧水量も多く、古来より武蔵野三大湧水池のひとつとして知られていました。

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善福寺池の名の由来は、池のほとりにあった寺からきていますが、江戸時代に廃寺となっています。

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池は上の池と下の池に分かれ、両方で約37,000平方メートルあり、公園全体の47%を占めています。

池にはカモ、カイツブリ、バンなどの水鳥やカワセミも来ます。

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井草八幡宮(3)神門~拝殿

文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたといいます。
江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があり、その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献されました。
神門
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拝殿
本殿の建築様式は権現造り。
昭和49年築のコンクリート造りの殿内には寛文4年(1664)に今川氏堯が改築した一間四方の朱塗の本殿があります。
杉並区最古の木造建築物です。


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井草八幡宮(2)頼朝お手植えの松

源頼朝が奥州征伐の際に、こちらに立ち寄り戦勝祈願し、2本の松を手植し奉献したと伝えられています。

現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまい、衝立として回廊内に保管されているそうです。


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井草八幡宮(1)

東京都杉並区善福寺に鎮座する井草八幡宮
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平安時代末期は春日神を祀っていましたが、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになりましたた。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をした伝えられています。
江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進がありました。
楼門
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井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
 
 当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
 源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
 また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
 明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。
(井草八幡宮HPより)
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源頼義、源頼朝ゆかりの諏訪神社

新宿区高田馬場にある諏訪神社は、 弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされています。

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当初、奥羽街道の一部松原街道に面していたので、松原神社と称されていましたが、江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直により諏訪神社と改名されました。
その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。
寛永年間(1624 - 44年)徳川家光が造営、 徳川家綱が老鷹を奉納して以後、代々徳川家の老鷹が奉納されており、徳川家の鷹狩と深いつながりを持ち、絵馬などが保管されています。
明和年間(1764 - 72年)徳川家治により、祭神を江戸城内の紅葉山及び吹上(浜離宮)へ遷座。
古より眼病・諸病に霊験有りとする地下霊水が湧き出しています。
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神輿庫
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塞神三柱の塔(さいのかみみはしらのとう) 新宿区登録有形民俗文化財
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区内で唯一の塞神塔。天和2年(1682年)に建立されました。

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源頼朝ゆかりの上田端八幡神社

東京都北区田端に鎮座する上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、文治5年(1189年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社です。
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現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その付近の畑の中には、争いの杉と呼ばれる神木がありました。木の高さは二丈五尺(約8.3m)余、幹の太さは九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。
そこで、奥州平泉の高館(たかだち)に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木かと争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉の木は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌(*1)の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。
このように境内の白鬚神社は、鎌倉から室町時代の貴重な伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考えるうえで重要な資料といえます。(東京都北区教育委員会)
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源頼朝ゆかりの田端八幡神社

東京都北区田端二丁目に鎮座する田端八幡神社
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祭神は品陀和気命(応神天皇)
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1189(文治5)年、源頼朝が、この地の豪族・豊島氏らと共に奥州藤原氏を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請、祭祀を起こし、郷土の鎮守とした神社です。
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この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神をしています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
 現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
 参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
 社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)二)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。(平成9年3月 東京都北区教育委員会)
 
富士浅間社                             稲荷社
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源頼朝布陣伝承地(3)音無親水公園

音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くから四季の行楽の名所、景勝の地でしたが、戦後の発展とともに石神井川は生活排水などで汚れた川となってしまいました。

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昭和30年代から始まった改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。(東京都北区HP参照)

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音無川のこのあたりは、 古くから名所として知られていました。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。

「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれていると記されています。

こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

    たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影

                                

飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より

 昭和六十三年三月                      東 京 都 北 区 」

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源頼朝布陣伝承地(2)松橋弁天

かつて金剛寺の領域内には松橋弁天と呼ばれる弁才天を祀った祠がありました。

当寺院傍に流れる石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天で、弘法大師の作ともいわれています。松橋は当地の旧名で、弁才天は岩屋にあったことから岩屋弁天ともいわれました。

『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われているそうです。

弁天像を納めていた岩屋も、1975年頃に石神井川の護岸工事が行われた際に取り壊されてしまったそう。

現在都営住宅が建っている付近の崖に、かつては弁天の滝と呼ばれていた滝があり、夏は滝で水遊びをして涼をとる様子が、広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれているそうです。

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もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。

崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。

また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。

滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。(案内板より) 


石神井川
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石神井川にかかる松橋
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