平宗盛

2014年2月27日 (木)

紅葉谷~弥山本堂・平宗盛の梵鐘

紅葉谷のロープウェイ乗り場まで、毎回バスを利用していましたが、この時は紅葉狩りの観光客で長蛇の列ヾ(*゚A`)ノ
紅葉谷公園を通って乗り場まで歩いて行くことにしました。
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ロープウェイで獅子岩展望台に到着

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ここに来ると、海の上に浮かぶ島なのか、雲の上に浮かぶ島なのかがわからなくなります。
いつ見ても幻想的な景色です。

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夕陽が光の矢を射しているよう
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今まではここで終わりでしたが、今回は本堂まで歩いて行くことに。

この片道30分の山道のアップダウンが、予想以上にハードでした。
途中何度も腰が痛くなり、休みながらやっとの思いで本堂に到着!

弥山本堂
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806年、弘法大師(空海)の開基 

本尊虚空蔵菩薩

脇侍 不動明王・毘沙門天

唐から帰国した弘法大師が霊地を探し求めて宮島に立ち寄った際、山の姿が須弥山に似ているところから弥山と名づけ、御堂を建て100日間の求聞持の修法を行ったところといわれています。

清盛の次男・平宗盛が寄進した大梵鐘が安置されています。

宗盛の梵鐘
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重要文化財

治承元年(1177)平宗盛の寄進の刻銘があります。
この鐘は、島の多々良潟というところで宗盛が鋳造させたといわれ、 現在は弥山本堂に移されています。

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弥山霊火堂
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806年に弘法大師が修法を行った際の霊火が、1200年たった今も「消えずの火」として燃え続けています。
この火にかけられている大茶釜で沸かした霊水を飲むと、万病に効果があるとされています。

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2010年10月23日 (土)

宗盛塚 平家終焉の地

野洲町大篠原は、平家終焉の地であります。
国道8号線から一歩細い道を入った奥に、ひっそりと墓標が立っています。

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壇ノ浦で、平家一門を倒した義経は、宗盛・清宗父子を捕らえ、頼朝に報告するため、鎌倉へ向かいますが、手前の腰越で留められてしまいます。
鎌倉入りを許されず、京に戻る途中、頼朝の命により、宗盛父子を斬首。
鏡の宿を過ぎたここ篠原が平家終焉の地になりました。

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っていますが、義経が自ら元服した「鏡の宿」を血で穢すのを避けて、わざと通り過ぎたと伝えられています。

平家終焉の地           宗盛の墓    清宗の墓

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平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野州市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄弟平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将平宗盛とその子清宗を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野州町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり父子の首を洗ったといわれ、「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。(野州市観光物産協会)

 
蛙不鳴池および首洗い池

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西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。昔は横一町半(約二二〇m)あった。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。最近までその形を留めていた。
(野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会)

宗盛塚の前には、花や水などのお供え物があり、800年以上経った今でも参拝者が後を絶ちません。

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2006年5月 6日 (土)

熊野(ゆや)御前(4)

毎年5月3日、熊野の命日に行興寺の境内で、熊野御前の供養祭が行われる。

私が行った日がまさにその日で、供養祭を見ることが出来た。

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熊野(ゆや)御前(3)

熊野の献身的な介護のかいもなく、熊野の母は亡くなった。その後まもなく宗盛も源平合戦で命を失うことになる。熊野は尼になった後、33歳で亡くなった。
静岡県磐田市の行興寺には、熊野御前(左)とその母(右)の墓が
ある.。

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2006年5月 5日 (金)

熊野(ゆや)御前(2)

しかし、宗盛は熊野の申し出を聞き入れなかった。
ある日、無理やり清水の花見に連れて行かれた熊野は、宴の席でこう詠んだ。

いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん

この歌に胸をうたれた宗盛は、熊野が故郷へ帰るのを許した。C_4 7_c_1 14c

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2006年5月 4日 (木)

熊野(ゆや)御前(1)

熊野(ゆや)御前は平安末期に、遠州池田荘の庄司・藤原重徳の娘として生まれた。
平宗盛に寵愛された熊野は、都に住むこととなった。しかしある日、母の病気の知らせを受け、宗盛にお暇をいただきたいと申し出た。

静岡県磐田市行興寺には、国指定、一本、県指定5本の長藤がある。うち国指定(写真右)は樹齢850年を数え、熊野御前のお手植え とされている。

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2005年8月 4日 (木)

熊野の長ふじ

平安時代末期、遠江池田の荘に生まれ歌人として活躍した熊野(ゆや)御前は、平宗盛の寵愛を受けた。熊野御前とその母の墓のある行興寺には、熊野が植えて愛でたといわれる推定樹齢800年の国指定天然記念物の藤の木がある。見頃は4月下旬~5月上旬で、その花房は約1.5mにもなる。05050509p5050215c 05050510p5050229c

                                                                                                     

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