2007年6月23日 (土)

熊野神社

811年、修験道の日圓上人が紀州の熊野権現を勧請したのが始まりである。
平安末期に熊野詣を頻繁に行っていた後白河法皇の信仰が篤かったことでも知られ、新熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野と呼ばれている。
応仁の乱で消失したが、その後再建された。

建礼門院が安徳天皇の安産祈願をしたことから安産のご利益があると信仰されている。2_c_10 3_c_5

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2007年3月17日 (土)

大原(12) 寂光院と平家物語 

後白河法皇が大原へ建礼門院を訪ねる場面が描かれているのが、平家物語の「大原御幸」の章です。法皇は、建礼門院を気遣い、ごく少数のお供を連れて、お忍びで会いに来ました。平家一門を破滅に追いやった黒幕である法皇と対面した建礼門院の心情はいかなるものだったのでしょう。

寂光院には
汀の池(みぎわのいけ)、千年姫子松、汀の桜、諸行無常の鐘楼など平家物語ゆかりの遺跡がいくつかあります。
汀の池は、法皇が建礼門院を見舞った際に詠んだ歌にちなんでいます。


池水に みぎわの桜 散りしきて
 なみの花こそさかりなりけれ7_c_2 6_c 8_c_1 11_c

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2007年3月12日 (月)

大原(11)寂光院 本堂と雪見灯籠

本堂は平成12年に火災により消失、その後復元されました。
現在の本堂は、内陣および柱は飛鳥様式、藤原様式および平家物語当時の様式で、外陣は桃山様式のものを古式通りに忠実に復元されました。
本堂手前にある南蛮鉄の雪見灯籠は豊臣秀吉び寄進で桃山城から移したものです。
(寂光院HP参照) 12_c_2 6_2c_1

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2007年3月 9日 (金)

大原(10)寂光院と建礼門院 

建礼門院が平家滅亡後、平家一門と安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で暮らした。
寂光院には建礼門院が隠棲した庵室跡があります。
(庵室跡へは入れないので写真はありません)

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2007年2月28日 (水)

大原(8)建礼門院大原西陵

寂光院手前にある建礼門院の御陵。
晩年は、平家一族を弔いながら念仏三昧の日々を過ごし、59歳の生涯を閉じた。


この近くに建礼門院に仕えていた阿波内侍の墓もある。

建礼門院大原西陵1c_72 2c_58 4c_10

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2007年2月25日 (日)

大原(7)落合の滝

さらに寂光院の方に進んで行くと落合の滝があり、その傍らに建礼門院の詠んだ歌が書かれた看板があります。

ころころと 小石ながるる谷川の 河鹿なくなる 落合の滝2c_57

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2007年2月22日 (木)

大原(6)朧の清水(おぼろのしみず)

寂光院へ続く道の傍らにある建礼門院ゆかりの史跡。
建礼門院が京都から寂光院へ向かう途中、この清水に自分の姿を映してみたら月光によっておぼろげに見えたという。
おぼろに映ったのは建礼門院の姿だけでなく、平家一門が滅亡してしまったという悲しい心をもであろう。C_194 1c_70 2c_56

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2006年2月17日 (金)

建礼門院右京大夫(5)

やっと想いで右京大夫を手に入れた隆信であったが、次第に彼女への気持ちは冷めていくのでした。

 越えぬればくやしかりける逢坂を なにゆゑにかは踏みはじめけむ

年月は過ぎ、定家から「新勅撰集」を編集するにあたって、建礼門院の女房時代の召名と後鳥羽院の女房時代の召名のどちらの名をとるか問われ、右京大夫は昔の名の方を選びました。昔、わずか5、6年呼ばれた建礼門院右京大夫という名、のちに20年も呼ばれた後鳥羽院時代の名・・・彼女は資盛との思い出深い名の方を選んだのでしょうか?

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2006年2月16日 (木)

建礼門院右京大夫(4)

右京大夫には資盛の他に藤原隆信という恋人がいたという。隆信は、藤原定家の異父同母の兄弟にあたり、右京大夫より14、5歳年上の似絵の名手であった。その絵が歴史の教科書に載っている後白河天皇や源頼朝の絵だと伝えられている。隆信は、右京大夫に自分を受け入れてくれという歌を贈ります。既に資盛という恋人がいた右京大夫は、隆信からの求愛を続けましたが、熱烈なアプローチについに彼を受け入れてしまうのでした。

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2006年2月14日 (火)

建礼門院右京大夫(3)

資盛の死を知らされた右京大夫は、夫・平道盛の後を追って入水した小宰相のように死ぬことも、建礼門院のように出家することも出来ず、昔の資盛の領地を訪ねて思い出にひたったり、自分の死後、誰が資盛を弔ってくれるのかを心配していた。

いかにせむ 我がのちの世はさてもなほ むかしの今日を とふ人もがな

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