建礼門院

2020年3月24日 (火)

大原の源平史跡(10)茶室「孤雲」

寂光院の石段を上がっていくと、苔むした門の奥に、茶室「孤雲」と庭園があります。

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風情ある山門から紅葉に彩られた庭園を楽しむことができます。

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京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年3月に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。(寂光院HPより)

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2020年3月17日 (火)

大原の源平史跡(9)寂光院「大原御幸」

大原御幸とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事のこと。

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『平家物語』の灌頂巻にその様子が描かれています。

壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失い京都に戻った徳子は、洛東の吉田に隠棲して出家する。しかし、7月9日の大地震で居住していた坊が壊れ、9月には比叡山の北西の麓、大原の寂光院に入った。年が明けた文治2年(1186年)春、後白河法皇は大原の閑居への御幸を思い立つが、2月・3月は風が厳しく寒さも残っていた。夏となり賀茂祭(4月14日)が過ぎた頃、後白河は徳大寺実定・花山院兼雅・土御門通親ら公卿・殿上人・北面武士を引き連れて鞍馬街道を通り大原に向かった。

一行が寂光院に着いた時、徳子は裏の山へ花を摘みに行って留守だった。後白河が「女院自ら花を摘みに行くとは痛わしいことだ」と同情すると、留守を預かっていた老尼が「捨身の修行に身を惜しんではならないのです。現在の運命は過去の因によって決まり、未来の運命は今何をするかによって決まるのですから」と答えた。後白河が感心して「そういうお前は誰だ」と尋ねると、老尼は信西の娘・阿波内侍と素性を明かした。やがて二人の尼が山を降りてきた。徳子と重衡の妻・大納言典侍(藤原輔子)だった。徳子は思いもかけない後白河の来訪に戸惑ったが、阿波内侍に促されて対面した。

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後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
(Wikipediaより)

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謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。
謡曲史跡保存会

 

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2020年3月10日 (火)

大原の源平史跡(8)紫葉漬と大原女の発祥の地

大原は、古来より赤紫蘇が名産で、大原に隠棲した建礼門院が、里人の差し入れた漬物を気に入り、紫葉の漬物「紫葉漬」と名付け、後に大原の里にちなんで、柴の文字を用い「柴漬け」になったといわれています。

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今では、大原を代表する漬物のひとつですね。

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大原女(おはらめ)とは、大原の女子が、薪や柴を頭に載せて京の都で売ることを指します。

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建礼門院に仕えた阿波内侍が山仕事をした時の衣装を模したという伝承があります。

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紫葉漬と大原女の発祥の地

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 平安の昔寂光院に住まわれた建礼門院が,大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物の美味しさに感動され,「紫葉漬け」と名づけられたと伝えられています。
本来,紫葉漬とは夏野菜と赤紫蘇を指します。そして,使われる赤紫蘇は,大原盆地で繰り返し栽培されている為,原品種に近く,香り品質ともに,最上級と言われています。
この赤紫蘇を使って大原で漬けた紫蘇漬は京都府の伝統食品(京つけもの)の認定を受けています。
 また,建礼門院の女官阿波内侍のお姿が,ルーツであると伝わる大原女は,数々の書画や文献に残され,大原伝統文化の象徴として大原観光保勝会が保存に務めています。
 この度の建礼門院の八百年御遠忌に因み,大原のしば漬業者,赤紫蘇に縁のある者が,こぞって建礼門院の遺徳をしのび御恩に感謝の気持ちを表し,記念碑を建立して,後世に伝えるものです。
平成二十五年四月十五日
発起人 大原観光保勝会

 

 

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2020年3月 3日 (火)

大原の源平史跡(7)寂光院 諸行無常の鐘

汀の池に建つ江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。

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あまりにも有名な「平家物語」の冒頭部分が浮かびます。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」より

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鐘身に、宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次であったそうです。

 

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2020年2月21日 (金)

大原の源平史跡(5)寂光院 山門~本堂

大原の寂光院は、平清盛の娘・建礼門院徳子が、平家滅亡後に隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られています。

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寂光院
天台宗の尼寺で、山号は清香山、寺号は玉泉寺という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩薩を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。
文治元年(1185)9月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、後閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸として知られている。

旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊・六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである。
京都市(駒札より)

 

 山門               本堂

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本堂は、片桐且元が奉行として慶長年間(1596年~1615年)に再興されましたが、2000年(平成12年)に放火で焼失し、現在の本堂は2005年(平成17年)6月に再建されました。その際、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味し、5年の歳月をかけて造られたそうです。

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2020年2月10日 (月)

大原の源平史跡(4)建礼門院ゆかりの朧の清水

三千院から寂光院に向かいます。

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コスモス畑やのどかな田園風景を楽しみながら進んでいきます。

呂川の川沿いに降りてゆく道が、いつの間にか大原女の小径と名付けられていました。

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ここまで来ると、人とすれ違うことがなくなります。

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三千院はあんなに混んでいたのに、寂光院に向かう人は少ないのかな。

 

平家物語ゆかりの朧の清水

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建礼門院が寂光院への道すがら、月の明かりでこの泉にやつれた姿を映し嘆いたとたといいます。

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ところどころに紅葉も見られます。

寂光院まであと少し。

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2020年1月27日 (月)

大原の源平史跡(3)建礼門院大原西陵

寂光院の門前手前の斜面に紅葉に彩られた参道が一直線に伸びています。

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ここを上った高台に建礼門院徳子の墓所と伝えられる建礼門院大原西陵があります。

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前の記事に書いた後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して、こちらは大原西陵と言います。

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鳥居の中に五輪塔がある仏教式御陵となっています。

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高倉天皇の中宮。名は徳子。父は平清盛,母は平時信の娘時子。承安1(1171)年高倉天皇の女御として入内し,翌年中宮となった。治承2(1178)年言仁親王(→安徳天皇)を産み,養和1(1181)年門院宣下。元暦2(1185)年平氏が壇ノ浦の合戦に敗れると,安徳天皇とともに入水したが救助され,落飾して真如覚と号した。のち大原寂光院に閑居して仏に仕えた。陵墓は寂光院裏山の大原西陵。 (コトバンクより)

 

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2013年5月 5日 (日)

長楽寺(2)相阿弥作庭園

相本堂と梵鐘

毎年大晦日の除夜の鐘として鳴らされ ています。

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この辺りは紅葉が残っていました。

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相阿弥作庭園

室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられています。

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建礼門院の木像

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※季節はずれの記事ですみません(^_^;)

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2013年4月25日 (木)

長楽寺(1)建礼門院 秘宝展

何度か訪れている東山の長楽寺ですが、昨年12月に、大河ドラマ「平清盛」放映記念 平清盛の娘 「建礼門院 秘宝展 」に出かけてきました。

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本堂

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長楽寺

寺伝によれば、延暦24年(805)桓武天皇の勅令によって伝教大師(最澄)を開基として創建されたと伝わる。
当初は天台宗の寺院であったが、室町時代初期に国阿(こくあ)上人が中興してから時宗に改められた。
本尊に准胝観音像(じゅんていかんのんぞう)を祀り、洛陽三十三観音霊場の第七番札所でもある。
一条天皇の時(986~1011)に巨勢広高(こせのひろたか)という絵師が当寺で地獄変相の壁画を描いたことが今昔物語にみえており、文治元年(1185)安徳天皇の生母、建礼門院が僧 印誓(いんせい)について剃髪されたところでもある。
また、法然上人の弟子 隆寛(りゅうかん)がここに住み念仏を広めた。当時はこれを長楽寺流と呼ぶほどに世間に知れ渡っていた。
昔は祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、多くの文人や画家が訪れたところである。
寺宝には、一遍上人を含む七人の上人像(全て重要文真財)、一遍-宗祖ー、真教(しんきょう)-二祖ー、一鎮(いっちん)-遊行六代ー、尊明(そんめい)-遊行十三代ー、太空(たいくう)-遊行十四代ー、尊恵(そんえ)-遊行十五代ー、暉幽(きゆう)-遊行十七代ーの諸像や建礼門院御遺宝、相阿弥(そうあみ)作と伝わる庭園がある。
また、境内山上の墓地には、江戸時代後期の歴史家頼山陽(らいさんよう)やその弟子頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、水戸烈士の墓もある。
      京都市(案内板より) 

建礼門院 秘宝展

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建礼門院画像、安徳天皇画像、安徳天皇の形見の衣で建礼門院が自ら縫った幡や、一遍上人像などが展示されていました。

建礼門院御塔

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この塔は、古来長楽寺山山腹八丁台の景勝の地に立っていたが、明治初年この地に移された。
源平合戦の後、元暦二年(1185)五月一日、当寺の阿證房印誓上人により、御髪をおろされたときの御髪塔とも伝え、また、読み物系平家物語には、貞応二年(1223)、鷲尾において69歳で往生の素懐をとげられたとも、また、御遺骨を鷲尾に納められたともあり、その鷲尾が鷲尾山長楽寺(旧呼称)を指しているとすれば、この御塔は、女院の御舎利塔とも拝される。(案内板より)

平安の滝

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法然上人の高弟・隆寛律師や建礼門院などが修行された滝といわれています。

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2012年11月 8日 (木)

建礼門院が剃髪した長楽寺

壇ノ浦での合戦では、安徳天皇を抱いた二位の尼(平時子)をはじめ、平家の女官達が次々と海に飛び込む中、着物の袂に硯などのおもりを入れて飛び込んだ建礼門院徳子は、源氏方によって熊手で長い髪の毛を引き寄せられ、死ぬことも許されませんでした。

平家滅亡後、京に戻った建礼門院は、1185年5月1日、東山の長楽寺で、髪をおろしました。その際、3月に壇ノ浦で入水された安徳天皇が間際まで召されていたという形見の直衣を御布施として自ら幡を縫われ、御菩提を弔われました。

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その実物が京都の東山にある長楽寺に保管されています。
近年の調査の結果、800年前の平絹の繊維に間違えないことがわかったそうです。

長楽寺の境内には、建礼門院御塔があります。(御髪塔とも)

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説明板によると、

「この塔は以前は長楽寺山山腹八丁台の景勝地にあったが、明治初年にこの地に移された。平家物語には、鷲尾にて69歳で亡くなった、遺骨を鷲尾に納めたともあり、鷲尾山長楽寺のことを指しているとすれば、この御塔は女院の御舎利塔とも拝される。」

鷲尾という地名は、東山区鷲尾町という町の名前に見られます。

また当寺には建礼門院の御影が保存されています。

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壇ノ浦の合戦後、京に戻った建礼門院に対しての、源氏方の監視が厳しく、この御影も源氏方の目を逃れる為、当時は表面を墨で覆い隠し祭られていたと伝えられています。

その他の貴重な資料として、わずか8歳で入水された安徳天皇の「安徳天皇御影」があります。

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前住職の時代に渡辺拍舟画伯によって模写されたもので、その原画は泉湧寺に納められていますが、軸の裏書に、「長楽寺什物」と記されていることから、かつては長楽寺に祭られていたものらしいとうことです。

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