建礼門院

2013年5月 5日 (日)

長楽寺(2)相阿弥作庭園

相本堂と梵鐘

毎年大晦日の除夜の鐘として鳴らされ ています。

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この辺りは紅葉が残っていました。

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相阿弥作庭園

室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられています。

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建礼門院の木像

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※季節はずれの記事ですみません(^_^;)

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2013年4月25日 (木)

長楽寺(1)建礼門院 秘宝展

何度か訪れている東山の長楽寺ですが、昨年12月に、大河ドラマ「平清盛」放映記念 平清盛の娘 「建礼門院 秘宝展 」に出かけてきました。

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本堂

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長楽寺

寺伝によれば、延暦24年(805)桓武天皇の勅令によって伝教大師(最澄)を開基として創建されたと伝わる。
当初は天台宗の寺院であったが、室町時代初期に国阿(こくあ)上人が中興してから時宗に改められた。
本尊に准胝観音像(じゅんていかんのんぞう)を祀り、洛陽三十三観音霊場の第七番札所でもある。
一条天皇の時(986~1011)に巨勢広高(こせのひろたか)という絵師が当寺で地獄変相の壁画を描いたことが今昔物語にみえており、文治元年(1185)安徳天皇の生母、建礼門院が僧 印誓(いんせい)について剃髪されたところでもある。
また、法然上人の弟子 隆寛(りゅうかん)がここに住み念仏を広めた。当時はこれを長楽寺流と呼ぶほどに世間に知れ渡っていた。
昔は祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、多くの文人や画家が訪れたところである。
寺宝には、一遍上人を含む七人の上人像(全て重要文真財)、一遍-宗祖ー、真教(しんきょう)-二祖ー、一鎮(いっちん)-遊行六代ー、尊明(そんめい)-遊行十三代ー、太空(たいくう)-遊行十四代ー、尊恵(そんえ)-遊行十五代ー、暉幽(きゆう)-遊行十七代ーの諸像や建礼門院御遺宝、相阿弥(そうあみ)作と伝わる庭園がある。
また、境内山上の墓地には、江戸時代後期の歴史家頼山陽(らいさんよう)やその弟子頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、水戸烈士の墓もある。
      京都市(案内板より) 

建礼門院 秘宝展

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建礼門院画像、安徳天皇画像、安徳天皇の形見の衣で建礼門院が自ら縫った幡や、一遍上人像などが展示されていました。

建礼門院御塔

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この塔は、古来長楽寺山山腹八丁台の景勝の地に立っていたが、明治初年この地に移された。
源平合戦の後、元暦二年(1185)五月一日、当寺の阿證房印誓上人により、御髪をおろされたときの御髪塔とも伝え、また、読み物系平家物語には、貞応二年(1223)、鷲尾において69歳で往生の素懐をとげられたとも、また、御遺骨を鷲尾に納められたともあり、その鷲尾が鷲尾山長楽寺(旧呼称)を指しているとすれば、この御塔は、女院の御舎利塔とも拝される。(案内板より)

平安の滝

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法然上人の高弟・隆寛律師や建礼門院などが修行された滝といわれています。

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2012年11月 8日 (木)

建礼門院が剃髪した長楽寺

壇ノ浦での合戦では、安徳天皇を抱いた二位の尼(平時子)をはじめ、平家の女官達が次々と海に飛び込む中、着物の袂に硯などのおもりを入れて飛び込んだ建礼門院徳子は、源氏方によって熊手で長い髪の毛を引き寄せられ、死ぬことも許されませんでした。

平家滅亡後、京に戻った建礼門院は、1185年5月1日、東山の長楽寺で、髪をおろしました。その際、3月に壇ノ浦で入水された安徳天皇が間際まで召されていたという形見の直衣を御布施として自ら幡を縫われ、御菩提を弔われました。

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その実物が京都の東山にある長楽寺に保管されています。
近年の調査の結果、800年前の平絹の繊維に間違えないことがわかったそうです。

長楽寺の境内には、建礼門院御塔があります。(御髪塔とも)

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説明板によると、

「この塔は以前は長楽寺山山腹八丁台の景勝地にあったが、明治初年にこの地に移された。平家物語には、鷲尾にて69歳で亡くなった、遺骨を鷲尾に納めたともあり、鷲尾山長楽寺のことを指しているとすれば、この御塔は女院の御舎利塔とも拝される。」

鷲尾という地名は、東山区鷲尾町という町の名前に見られます。

また当寺には建礼門院の御影が保存されています。

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壇ノ浦の合戦後、京に戻った建礼門院に対しての、源氏方の監視が厳しく、この御影も源氏方の目を逃れる為、当時は表面を墨で覆い隠し祭られていたと伝えられています。

その他の貴重な資料として、わずか8歳で入水された安徳天皇の「安徳天皇御影」があります。

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前住職の時代に渡辺拍舟画伯によって模写されたもので、その原画は泉湧寺に納められていますが、軸の裏書に、「長楽寺什物」と記されていることから、かつては長楽寺に祭られていたものらしいとうことです。

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2007年6月23日 (土)

熊野神社

811年、修験道の日圓上人が紀州の熊野権現を勧請したのが始まりである。
平安末期に熊野詣を頻繁に行っていた後白河法皇の信仰が篤かったことでも知られ、新熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野と呼ばれている。
応仁の乱で消失したが、その後再建された。

建礼門院が安徳天皇の安産祈願をしたことから安産のご利益があると信仰されている。2_c_10 3_c_5

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2007年3月17日 (土)

大原(12) 寂光院と平家物語 

後白河法皇が大原へ建礼門院を訪ねる場面が描かれているのが、平家物語の「大原御幸」の章です。法皇は、建礼門院を気遣い、ごく少数のお供を連れて、お忍びで会いに来ました。平家一門を破滅に追いやった黒幕である法皇と対面した建礼門院の心情はいかなるものだったのでしょう。

寂光院には
汀の池(みぎわのいけ)、千年姫子松、汀の桜、諸行無常の鐘楼など平家物語ゆかりの遺跡がいくつかあります。
汀の池は、法皇が建礼門院を見舞った際に詠んだ歌にちなんでいます。


池水に みぎわの桜 散りしきて
 なみの花こそさかりなりけれ7_c_2 6_c 8_c_1 11_c

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2007年3月12日 (月)

大原(11)寂光院 本堂と雪見灯籠

本堂は平成12年に火災により消失、その後復元されました。
現在の本堂は、内陣および柱は飛鳥様式、藤原様式および平家物語当時の様式で、外陣は桃山様式のものを古式通りに忠実に復元されました。
本堂手前にある南蛮鉄の雪見灯籠は豊臣秀吉び寄進で桃山城から移したものです。
(寂光院HP参照) 12_c_2 6_2c_1

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2007年3月 9日 (金)

大原(10)寂光院と建礼門院 

建礼門院が平家滅亡後、平家一門と安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で暮らした。
寂光院には建礼門院が隠棲した庵室跡があります。
(庵室跡へは入れないので写真はありません)

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2007年2月28日 (水)

大原(8)建礼門院大原西陵

寂光院手前にある建礼門院の御陵。
晩年は、平家一族を弔いながら念仏三昧の日々を過ごし、59歳の生涯を閉じた。


この近くに建礼門院に仕えていた阿波内侍の墓もある。

建礼門院大原西陵1c_72 2c_58 4c_10

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2007年2月25日 (日)

大原(7)落合の滝

さらに寂光院の方に進んで行くと落合の滝があり、その傍らに建礼門院の詠んだ歌が書かれた看板があります。

ころころと 小石ながるる谷川の 河鹿なくなる 落合の滝2c_57

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2007年2月22日 (木)

大原(6)朧の清水(おぼろのしみず)

寂光院へ続く道の傍らにある建礼門院ゆかりの史跡。
建礼門院が京都から寂光院へ向かう途中、この清水に自分の姿を映してみたら月光によっておぼろげに見えたという。
おぼろに映ったのは建礼門院の姿だけでなく、平家一門が滅亡してしまったという悲しい心をもであろう。C_194 1c_70 2c_56

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