小督と清閑寺
東山にある真言宗の清閑寺(せいかんじ)は、小督が出家した寺です。
清閑寺
歌乃中山と号する真言宗智山派の寺である。ここから清水寺までの山路は、かつては歌の中山と呼ばれる名所で、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた。
延暦21年(802)に、天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建され、一条天皇の時代(986~1011)に勅願寺となった。
「平家物語」の非恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺で、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇に寵愛されたために清盛の怒りに触れた小督局は、宮中を追われてこの寺で出家させられたと伝えられている。天皇は深く心を痛め、自分が死んだら局のいるこの寺に葬るよう遺言を残し、二十一歳の若さでこの世を去った。背後の山に、六條天皇と高倉天皇の御陵があり、高倉天皇陵の傍らには、天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれる局の墓がある。
庭にある大きな石からは扇を広げたような形で市内が一望でき、その石が丁度扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれ、願いをかけると叶うといわれている。
かつては法華三昧堂や宝塔などが並んでいたが、現在は菅原道真が梅樹から彫ったという本尊・十一面観音像を安置する本堂を残すのみである。
(京都市)
謡曲「小督」と清閑寺
歌の中山清閑寺」といわれるこの寺は、真言宗智山派に属し、延暦二十一年(802)紹継法師の創建によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が平清盛のために尼にさせられたところといわれています。
小督局は高倉帝の愛をうけましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため嵯峨に身を隠したのは有名で、これをもとにつくられたのが謡曲「小督」です。
しかし帝の心は変わらず「私が死んだら、小督のいる清閑寺に葬ってくれ」と遺言され、養和元年(1181)亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。
寺の背後の山中に御陵があり、傍らに小督の墓があり、またこの裏にある宝筐印塔は供養の塔だといわれています。山号の歌の中山は清水寺から清閑寺に至る山路をいいます。(謡曲史跡保存会)
小督の供養塔
要石
また当寺は、西郷隆盛と成就院の僧・月照が密議を交わした場所でもあります。
境内からの眺め
秋は紅葉が美しいお寺です。
お隣の清水寺へはたくさんの参拝客がありますが、こちらは訪れる人が少ないようです。
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