嵯峨野の祇王寺(2)
もとは大塔の前、金堂の東辺りに桜があったそうです。
久安5(1149)年、落雷で焼失した根本大塔を再建するため、鳥羽上皇の命により「修造奉行」として平清盛が任命され、保元元年1156年4月29日、清盛は大塔を再建しました。
修造が終わり、完成時に高野山を参詣した清盛は、大塔の桜の樹のもとで、一人の老僧と出会います。その老僧は、大塔の修理のお礼を述べ、厳島神社の修理を清盛に勧めた上、「悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望が叶うことはないだろう」と言い、二、三町ほど過ぎたところで、その姿を消しました。
清盛はこの老僧は弘法大師の化身であったと信じ、金堂に曼荼羅を奉納しました。
その後、清盛が老僧と出会った桜の木は「対面桜」もしくは「影向桜(ようごうざくら)」と呼ばれるようになりました。
中門をくぐった右側に対面桜があります。
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10月の下旬、高野山に出かけて来ました。
今年は暖かい日が続いたせいか、紅葉は遅れているようです。
蓮池 中門
根本大塔
金堂は平安時代から高野山の総本堂であり、昭和元年(1926年)に焼失しました。
昭和9年(1934年)に再建され、鉄筋コンクリート造、屋根は入母屋造の建築で8代目です。
現本尊は薬師如来(阿閦如来)で、金堂再建時に新造された高村光雲の作。
金堂
平安時代、保元元年(1156年)には、平清盛が巨大な両界曼荼羅を金堂に寄進しました。
「平家物語」には、平清盛が自らの頭の血で、胎蔵曼荼羅の中尊像を描かせたと記され、血曼荼羅とも呼ばれ、重要文化財になっています。
血曼荼羅の極彩色は、デジタル復元され、実物は高野山霊宝館に収蔵され、金堂には模写が展示されています。
以下、2015年7月3日の橋本新聞の記事です。
平安時代末期、平清盛が彩色に自らの血を混ぜて奉納したと伝わる高野山真言宗総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)所蔵の重要文化財「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)」=別名・血曼荼羅=が、凸版印刷(本社・東京)の最新技術で、当時の極彩色の「想定色(そうていしょく)平成再生版」として復元され、7月3日、高野山・壇上伽藍(だんじょうがらん)の金堂で「奉納開眼法会」が営まれた。
金堂内正面に掲げられた両界曼荼羅図は仏の世界が描かれ、向かって左側が「金剛界」、右側が「胎蔵界」で、原寸大(縦4・3メートル、横4メートル)と縮小版(縦1・98メートル、横1・86メートル)の各2幅。
両界曼荼羅図は仏の世界が描かれ、向かって左側が「金剛界」、右側が「胎蔵界」で、原寸大(縦4・3メートル、横4メートル)と縮小版(縦1・98メートル、横1・86メートル)の各2幅。
金剛峯寺の説明によると、保元元年(1156)に平清盛が奉納した通称「血曼荼羅」は、弘法大師・空海が、密教第七祖の中国長安・青龍寺の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より密教を伝法、正式な継承阿闍梨として付与され、大同元年(806)にわが国に伝来した根本曼荼羅の系統の「現存最古の彩色曼荼羅図」としている。
この「血曼荼羅」も、長年の奉祀法会(ほうしほうえ)に伴い、諸仏尊や紋様などの線描彩色(せんびょうさいしき)に経年劣化(けいねんれっか)が生じたため、金剛峯寺と凸版印刷が「高野山開創1200年記念時」完成を目指し平成19年(2007)から本格的に復元に着手。X線撮影などで約1900体の仏像や紋様などを解明し、デジタルデータを基に特殊プリント技術を駆使して、平安末期の極彩色「血曼荼羅」を甦らせたという。
全文はこちら
↓
http://hashimoto-news.com/news/2015/07/03/29324/
読売新聞(2012年6月10日)の記事より
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清和天皇の時代、貞観11年(869)、姫路市の広峰神社から京都の八坂神社に分霊を移す途中、その御輿が平野の地で一泊し、その霊験あらたなのを仰ぎ、御社を奉ったといわれています。
また、平清盛は経ケ島を築造の際、祇園神社の裏山にあった上伽寺で海潮の響きを聞きながら計画を練ったと伝えられています。
その上伽寺の山号「潮音山」は清盛が名づけたそうですが、源平合戦で焼失してしまいました。
以後上伽寺の復興を願って再建されたのが、東福寺となったそうですが、阪神大震災により全壊し、その後再建されました。
境内までは88段の急な石段が続きます。
アクセス:JR三ノ宮駅そごう前、JR神戸駅前、市営地下鉄湊川公園駅より
市バス⑦(平野下車)
東福寺
現在は近代的な建物です。
神戸市兵庫区五宮町18-1
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広島県竹原市は安芸の小京都といわれ、古来、瀬戸内海の交通の要衝として栄えました。
この沖で、清盛の父・平忠盛は海賊を退治しました。
後にこの辺りの海は「忠海(ただのうみ)」と呼ばれ、今もその地名が残っています。
1135年(保元元年)日宋貿易の航路である瀬戸内海の忠浦沖(当時は「浦」)で海賊を捕えた功績として忠盛の二文字を分け、「浦」を忠海と、対岸の島である大三島を盛村と名づけたと伝えられている。
また、この地には清盛ゆかりの耳無地蔵があります。
厳島神社に向かう途中に立ち寄った清盛が、娘・徳子の安産のためにつくった地蔵と伝わります。
さて、駅からプリントアウトした地図を頼りに、てくてくと歩いていったのですが、地図に記された目印が少なすぎて、どう歩いたらいいのやら。
線路沿いの道をひたすら歩いていたら、コンビニを発見!
地図を見せて聞いてみたところ、方角は合っているらしい。
またしばらく歩いていると住宅地に入りました。
通りを歩いている人の姿がないので、仕方なく民家をピンポンして道を尋ねてみました。
しかし、その地蔵のことは知らないと言われorz
さらに数百メートル歩いたところで、向こうからお婆さんが歩いて来ました。
このお婆さんが、耳無地蔵を知っていて、このまま坂を上って行ったら、下に下がる表示があるよと言われ、
歩いて行くと、綺麗にお祀りされているお堂に辿りつきました!
1178年春、平清盛は,高倉天皇に入内させた徳子(清盛の子)の安産祈願のため,厳島神社に向かった。
しかし、船旅の途中、激しい風に遭い、徳子の出産に胸騒ぎがした清盛は、安産を祈るため、石工に地蔵を彫るように命じた。
石工が耳を完成させる前に、徳子が元気な男の子(安徳天皇)を出産したため、耳がついていない地蔵をそのままの姿で祁った。
その地蔵が忠海の辻地蔵似心堂にある「清水の耳なし地蔵」といわれている。
なるほど耳がありませんね。
村の人々に大切にお祀りされているのがわかりますね。
この土地の人と話したところ、ここら辺では「清盛」と呼び捨てにする人はいないと。
必ず「清盛さん」と言うのだそうです。
帰りは走りながら駅に向かいました(^_^;)
一時間に一本なので、必死です(苦笑)
忠海のフェリー乗り場が見えたら駅まであともう少し!
電車が出るまであと5分!
どうにか時間に間に合いました!
場所を知っていれば、片道25分ぐらいで行けるかな?
私は往復55分かかりました。
今後行かれる予定の方は、次の電車に乗るには、のんびり歩きでは間に合いませんのでご注意を!
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広島から呉へ移動し、路線バスで清盛塚へ
渋滞がなければ、20分ほどで到着します。
清盛塚
伝清盛塚
音戸の瀬戸を切り開いたといわれる平清盛が、当時大工事を行う際に献じたと言われる人柱の代わりに、一字一石の経石を海底に沈め、難工事を完成させたという逸話が残されています。
清盛塚は、元暦元年(1184年)に建立されたと伝えられており、周囲49mの石垣に囲まれた塚の中央には、清盛公の功徳を称えた高さ2mほどの宝篋印塔があります。
境内のクロマツは、享保4年(1719年)に一度枯死して植えかえられたとされています。平成11年(1999年)には再び枯れてしまいましたが、新しい幼木が育って、現在まで「清盛松」として親しまれています。 呉市
音戸大橋
手前の橋は音戸大橋で、背後に見える橋は、音戸大橋の交通渋滞の緩和などを目的として現在建設中、来年開通予定の第二音戸大橋です。
二階のミュージーアムには、清盛像があり、音戸大橋をバックに記念撮影ができます。
清盛像
お昼には、4階の和食のお店で「清盛丼」をいただきました!
瀬戸内の新鮮な海の幸がご飯の上に載っています。
音戸の舟唄の石碑
続いて、日招像のある高烏台へ
懐かしい日招像との再会!
日招像
音戸の瀬戸開削800年を記念して建てられた清盛の銅像です。
伝説のとおり日没の方向に扇を向けて立ち、海上交通の安全を見守っています。
後ろ姿
ここからの景色は絶景です!
日招像から200m程、山道を下ると、日招岩という清盛の足跡と杖の跡が残る岩もあります。
清盛像からかなり下へ降りて行きます。
遊歩道を進んでいくと、大きな岩がありました!
これが日招き岩です!
シャトルで一周し、帰りは、呉湾観光遊覧船を利用しました。(片道500円)
この船にはガイドさんの解説を聞きながら、護衛艦や潜水艦を海から眺めることができます。
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広島駅から北に徒歩15分、坂の上に立ち、長い階段を上ったところにあります。
尾長天満宮は菅原道真公が901年(延喜元年)大宰府に向かわれる際に立寄られた所です。
平安時代、平清盛が安芸守であった時、厳島に参詣の途中現在の尾長天満宮付近にさしかかった際、激しい豪雨と落雷に遭遇し絶体絶命の窮地に陥った。その折、菅大臣菅原道真公のご加護を祈り九死に一生を得ることができた。清盛は道真公の神徳を感じ、この一帯を「菅大臣峰」と名付け、峰の中腹に天満宮の社殿を建立したと伝えられています。
合格の木
登竜門
江戸時代、広島藩浅野家初代藩主・浅野長晟が京から連歌師の松尾忠正を招きました。その忠正の霊夢により、山中にあった祠を民家に近い現在地に移転、1640年(寛永17年)に社殿を建立しました。
朝ホテルを出たのが6時前で、ここに着いたのが6時20分。
まだ辺りがようやく明るくなり始めた頃でした。
ここを上っていくと、道真の腰掛石があり、その辺りが、清盛が社殿を建てたところだと案内板に書いてあります。
が、この上の道が薄暗くて、どうなっているのかわからないので、そこまで行くのは止めました。
境内からは、広島市街が見渡せます。
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20年に一度社殿を造りかえる式年遷宮が昨年行われ、新しいお社ができました。
第一鳥居の右手に、樹齢1000年に近いといわれる清盛楠があります。
平清盛が勅使として外宮に参向したとき、この木の枝が冠に触れたため、西側の枝を切らせたという伝承があります。
清盛は勅使として神宮を3度訪れているとか。
清盛楠はすでに平安時代末期には大樹であったようですが、昭和34年の伊勢湾台風により、中央部分が裂けて倒れ、現在の形になったそうです。
3月末まで、外宮の古殿地拝観ができるのですが、時間の都合では外から見学しました。
旧御正殿
古いお社は、苔生した屋根が20年の年月を物語っています。
新御正殿
新しいお社は、真新しい金の千木と鰹木が新鮮です☆☆☆
階段の上からは撮影禁止なので、ここまでが限界・・・
平日で、この人混みですから、お正月は初詣客で凄かったのでしょうね。
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