後白河天皇

2020年3月17日 (火)

大原の源平史跡(9)寂光院「大原御幸」

大原御幸とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事のこと。

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『平家物語』の灌頂巻にその様子が描かれています。

壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失い京都に戻った徳子は、洛東の吉田に隠棲して出家する。しかし、7月9日の大地震で居住していた坊が壊れ、9月には比叡山の北西の麓、大原の寂光院に入った。年が明けた文治2年(1186年)春、後白河法皇は大原の閑居への御幸を思い立つが、2月・3月は風が厳しく寒さも残っていた。夏となり賀茂祭(4月14日)が過ぎた頃、後白河は徳大寺実定・花山院兼雅・土御門通親ら公卿・殿上人・北面武士を引き連れて鞍馬街道を通り大原に向かった。

一行が寂光院に着いた時、徳子は裏の山へ花を摘みに行って留守だった。後白河が「女院自ら花を摘みに行くとは痛わしいことだ」と同情すると、留守を預かっていた老尼が「捨身の修行に身を惜しんではならないのです。現在の運命は過去の因によって決まり、未来の運命は今何をするかによって決まるのですから」と答えた。後白河が感心して「そういうお前は誰だ」と尋ねると、老尼は信西の娘・阿波内侍と素性を明かした。やがて二人の尼が山を降りてきた。徳子と重衡の妻・大納言典侍(藤原輔子)だった。徳子は思いもかけない後白河の来訪に戸惑ったが、阿波内侍に促されて対面した。

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後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
(Wikipediaより)

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謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。
謡曲史跡保存会

 

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2018年1月11日 (木)

後白河天皇ゆかりの今熊野観音寺

泉湧寺の塔頭の一つに今熊野観音寺があります。
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本尊は十一面観音(秘仏)、西国三十三所第十五番札所。
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大同年間(806年~810年)、熊野権現のお告げを受けた空海がお堂を建てたのが始まりで、その後、藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられています。
本堂                  大師堂
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熊野権現を篤く信仰していた後白河天皇が今熊野の地に熊野那智権現を勧請したので新那智山とも呼ばれています。
 
頭痛持ちで苦しんでいた後白河天皇の枕元に観音様が現れて頭痛が治ったという話が伝えられていて、頭痛封じ、ボケ封じ、知恵授けのご利益で名高いお寺です。
 
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また紅葉の名所としても知られています。
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2015年1月 9日 (金)

後白河法皇が創建した法住寺殿の鎮守社・新日吉神宮

1160年(永暦元年)、後白河法皇が院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、もとは智積院南側に創建したのが始まりです。その後社地は転々としており、江戸時代になって豊国廟社が壊されたのと同時期に旧廟前に移り、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された1897年(明治30年)になってからです。
1958年(昭和33年)後白河天皇を増祀し、1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改めました。

楼門
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江戸時代には、豊臣家や豊臣秀吉に関するものはすべて壊され、禁止されたのですが、京都での秀吉の人気は高く、秀吉を隠れて崇拝する人々が集ったのが新日吉神宮だったといいます。

境内の樹下社(このもとのやしろ)は豊国神社(ほうこくじんじゃ)とも呼ばれ、この樹下社に、秀吉を信仰をする人々が訪れました。
かつて新日吉神宮が、豊国廟社の跡地に建っていたこと、樹下社の「樹下」と、秀吉の旧名・木下藤吉郎の「木下」、秀吉の幼名「日吉」だったため、新日吉の樹下社にすることでカモフラージュしたそうです。

拝殿
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本殿
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新日吉神宮の本殿脇にいるのは、狛犬ではなく狛猿
猿の姿をした神様のお使いで、「魔が去る」とか、「何よりも勝る」との語呂合わせがあるといわれています。
神猿はなぜか金網に入れられています。

その理由として、「神の使いが盗まれてしまわないように」「猿たちが夜な夜な動き出すのを防ぐため」と伝えられています。

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2014年6月17日 (火)

後白河院の勅願寺・尾道の浄土寺

尾道の浄土寺616年、聖徳太子の創建と伝えられています。

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本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所

1186年に後白河院の勅願寺となります。

足利尊氏が九州平定や湊川の戦いの際、戦勝祈願をした寺としても有名です。

本堂、多宝塔は国宝、山門、阿弥陀堂は国重文に指定されています。

本堂
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多宝塔
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阿弥陀堂
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奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。

山門からのぞく景色
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ここから尾道の街が一望できます!

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2014年3月23日 (日)

宮島の後白河法皇お手植えの松と九本松

そして厳島神社の社殿の裏側にあるのが、後白河法皇お手植えの松です。

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後白河法皇御行幸松

承安四年(1174)後白河法皇が参詣された折お手植えされた松の遺木である
明治初期に切り倒された

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後白河法皇は、1174年(承安4年)清盛、建春門院滋子などと共に、厳島に参詣しています。

松といえば、大願寺の境内には、伊藤博文お手植えと伝えられる九本松もあります。

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本堂奥の書院は、第二次長州戦争の時、勝海舟と長州藩藩士らが会談をした場所として知られています。

ここも数々の歴史の舞台になってきたのですね。

(宮島観光協会サイト参照)

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2011年12月10日 (土)

紅葉の神護寺

11月、京都の高尾に紅葉狩りに出かけて来ました。

神護寺
は、「神願寺」と「高雄山寺」という二つの寺院が天長元(824)年に合併してできた寺です。

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開基は和気清麻呂。唐から帰朝した空海も住持を務めました。
しかし、平安時代末期には衰退し、仁安3年(1168年)神護寺を参詣した文覚が、寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始めました。その後、後白河法皇源頼朝らの援助を得て、寺の再興は進みました。

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寺宝として、伝平重盛像・伝源頼朝像・伝藤原光能像があり、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされていますが、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、論争が続いています。

この日は祝日に当たり、多くの観光客が訪れていました。
部分的には真っ赤に紅葉しているところもありましたが、見頃まではもう少しという感じでした。
(撮影 11月23日)

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2008年3月29日 (土)

城南宮

城南宮は白河上皇が造営した鳥羽離宮にあった鎮守社で、歴代の天皇、上皇たちがしばしば行幸しました。
ここは平清盛が安徳天皇を天皇に即位させるために、後白河法皇を幽閉したところでもあります。
また、京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから、方除け、厄除けの神として信仰されるようになりました。
寝殿を取り囲む神苑「楽水苑」と呼ばれ、春の山、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南離宮の庭から成り、春には約150本のしだれ梅が咲き乱れます。
この苑内では、平安時代の衣装をまとい、小川を流れる杯が前を行き過ぎるまでに和歌を詠むという「曲水の宴」が春と秋に催されています。
境内の「菊水若水」は江戸時代から知られる霊水で、今でも伏見の名水として知られています。飲むとあらゆる病気が治るといい、法皇の歯痛も治ったと伝わっています。,

私が訪れた2月末は、まだしだれ梅が3分咲きだったので、神苑には入りませんでした。
いつか花に彩られた庭園を見てみたいですImg_3114c Img_3119c Img_3115c Img_3116c Img_3121c


2008年1月17日 (木)

新日吉神宮(いまひえじんぐう)

三十三間堂の東側、智積院の裏側に新日吉神宮があります。
1160年、後白河法皇が法住寺を造営する際、近江日吉大社の神を勧請したのが始まりとされています。
その後応仁の乱などで荒廃してしまいますが、再建され明治時代になって現在の地に移されました。
酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集め、5月第2日曜に開催される新日吉祭は神仏混交の珍しい祭りで、妙法院門跡法楽の儀も行われます。Img_2383c Img_2384c Img_2385c

2007年12月23日 (日)

新熊野(いまくまの)神社

新熊野神社は平安時代末期、後白河天皇によって創建された神社です。
後白河天皇は退位後も、三十三間堂東側の法住寺において院政を敷かれていました。
 熊野信仰が盛んなこの時代、上皇は熊野詣に大変熱心で34回も参詣されたといわれています。当時、法住寺は法住寺殿と呼ばれ、その鎮守社として創建されたのがこの新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には平清盛が当たりました。

「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野し対して、京の新しい熊野という意味があるとのことです。

また高倉天皇が徳子の安産を祈願したことから安産の神としても信仰を集めています。Img_2360c(新熊野神社HP、源平史跡177選参照) Img_2362c Img_2361c


2007年12月15日 (土)

今熊野観音寺

 南紀の旅の記事はまだ途中なのですが、紅葉を見に京都へ行って来ましたので、ここで京都の記事をUPします。

 泉湧寺の近くに今熊野観音寺というお寺があります。
今熊野観音寺は熊野権現のお告げを受けた空海がお堂を建てたのが始まりで、熊野権現を篤く信仰していた後白河天皇が今熊野の地に熊野那智権現を勧請したので新那智山とも呼ばれています。
頭痛持ちで苦しんでいた後白河天皇の枕元に観音様が現れて頭痛が治ったという話が伝えられていて、頭痛封じ、ボケ封じ、知恵授けのご利益で名高いお寺です。
また紅葉の名所としても知られ、境内一面に広がるモミジが見事でした。

私は頭痛持ちなので、頭痛封じの枕カバーを買いました。
効果は?
まだ使ってないのでわかりません。(笑)Img_2365c Img_2369c Img_2373c


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