平重衡

2007年4月22日 (日)

平重衡塚

醍醐寺から歩いて住宅地の道を歩いていくと、団地のそばの公園の片隅に平重衡の墓がポツンとあります。

この地(日野)は重衡の北ノ方大納言佐局が平家没落後、身を寄せていた。
一ノ谷の合戦で捕らえられた重衡は鎌倉から奈良へ引き渡されたが、途中ここに立ち寄り北ノ方との別れを惜しんだ。
南部焼き討ちの罪を問われ、木津河原で斬首された後、日野で荼毘に付されたといわれている。(説明版参照)2c_60

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2006年6月30日 (金)

東大寺(3)大仏殿

聖武天皇によって建てられたが、1180年12月28日、重衡の兵火により、大仏殿をはじめほとんどの伽藍を焼失。翌年から大勧進職に任命された俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)によって着手される。重源は全国を勧進する一方、源頼朝の援助も得た。
1195年、頼朝ら列席のもと、落慶法要が営まれた。
しかし、その後も1567年、永禄の兵火により焼失し、1709年に再建された。
高さ49m、幅57m、奥行き50mで世界一の木造建築物とされている。

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2006年6月27日 (火)

平重衡の南都焼き討ち(2)

南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをする。
1184年、一の谷の合戦で、重衡は捕らえられ、鎌倉に送られた。重衡の潔い態度に、頼朝は一武将としての敬意を表し、客人のように扱ったという。しかし、南都からの再三にわたる重衡の引渡し要求に応じることとなった。


重衡が捕らえられた場所は神戸・須磨寺近くに
重衡捕われの松の跡として残っています。
この史跡に関しては過去の記事2005年10月31日「平重衡捕われの松」http://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/2005/10/index.html をご覧下さい。

最期は、1185年木津川のほとりで首を刎ねられ、奈良の般若寺の門前に梟首された。
この場所からは、東大寺が見えるという。

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2006年6月26日 (月)

平重衡の南都焼き討ち(1)

南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景があり、1180年12月、清盛が五男の重衡に南都攻略を命じた。
夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福寺に燃え移り、東大寺まで広がったという。そして庶民が逃げこんだ大仏殿もが
炎に包まれてしまった。

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2006年6月23日 (金)

興福寺(1)五重塔

藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、奈良時代初期には四大寺のひとるとして栄えてしましたが、源平合戦の最中、平清盛の五男・重衡の兵火によってほとんどの堂・寺宝を焼失しました。
奈良公園のシンボルとなっている五重塔は、幾度も焼失、再建を繰り返し、現在のものは1420年に建てられました。高さ約50mで、古塔としては、京都の東寺に次いで日本で二番目の高さを誇っています。

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2005年10月31日 (月)

平重衡捕われの松

生田から逃げてきた平重衡は、源範頼の配下に捕らえられました。重衡は、松の根に腰をおろして次の歌を詠みました。

ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ

現在は、松はなく、須磨寺駅付近に碑と祠があります。b b b

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