藤原秀衡

2011年4月11日 (月)

東京の源平史跡(4) 八幡山本願寺・車返八幡神社

八幡山本願寺は、京王線の武蔵野台駅から約200mのところにあります。

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由緒書によると、

「車返は現在の白糸台二・四・五丁目の一部(旧甲州街道・いききの道沿い)に集落の中心があった村落で、幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には家数総て八十九軒で、西を上とし、中央を中と言い、東方を下と言ったという。古名を白糸村と称した。地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したが、夢のお告げによってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれる。境内は市立第四小学校西側にあったとされ、彦四郎塚、首塚と呼ばれる古塚が現存する。
後にお堂は兵火で焼かれたが、総州の彦四郎こと大久保彦四良により再建され、永正13年(1516)鎌倉光明寺の僧教誉良懐上人を迎えて中興開山となし一寺の形態を定めたという。時代は下って天正2年(1574)徳川家康の家臣で当地の領主であった宮崎恭重が境内、堂宇を寄進し、寺を現在地に移転し、この時初めて当寺を八幡山本願寺と呼称したという。」

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薬師堂

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隣接して車返八幡神社があります。

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2005年9月16日 (金)

中尊寺(5)金色堂

本堂を過ぎればすぐ左手に金色堂が見えてきます。金色堂は、中尊寺創建当初の唯一の遺構です。皆金色の阿弥陀堂は、金箔、金銀珠玉、夜光貝などの装飾が施され、藤原氏の黄金文化を象徴しています。本尊は阿弥陀如来。中央の仏壇には清衡公、向かって左が基衡公、右に秀衡公の御遺体、泰衡の首級が納められています。C_37

2005年8月 5日 (金)

二つ御堂

浜松市東若林町の国道を挟んで両側に、二つの御堂がある。北の御堂は、藤原秀衡の愛妾が秀衡が京都で死去したとの誤報を聞いてこの地に建てたものである。その後、愛妾は病で死んでしまった。一方、南の御堂は、その話を聞いた秀衡が、平泉に帰る途中、愛妾のために建てたものである。 

南の御堂                              北の御堂    b bb

 

  

秀衡松  b b          b                                       

  

                    

                                                                                         

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