安徳天皇

2016年5月 1日 (日)

下関の厳島神社

下関上新地の厳島神社は、「嚴島神社記録帳」によると、平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていましたが、壇ノ浦の戦い後、磯辺に放棄されていました。後に里人に神託があって、「吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と、ふしぎに思いながらそこに行って見ると、磯辺に御鏡太刀様の物をみつけ、1185年(文治元年)里人たちが社殿を建立し、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請しました。

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壇ノ浦の合戦の後、各地に落ち延びた平家の武者たちは、隠れ住みながらも、嚴島三神を祀りました。そして、勝者である源氏においても、嚴島三神の神威を尊び、斎き祀ることを咎めることなく丁重な対応をとったといいます。(長門国嚴島神社HPより)

宗像三神(「厳島三神」)として以下の三つの神を祀っています。

市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)

慶応2年(1866)の小倉戦争の戦利品として、奇兵隊が小倉城から持ち帰った大太鼓が、境内に飾られてあります。

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2016年2月17日 (水)

赤間神宮(9)赤間神宮御旅所

下関市伊崎町に赤間神宮の御旅所があります。

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寿永4年(1185)3月24日、伊崎の中島組という漁業団が網を張って小門(おど)海峡で漁をしていた時、壇ノ浦で入水した安徳天皇のご遺体がいわし網にかかり、中島家がご遺体を陸上に引き揚げて安置した場所が「御旅所」であり、紅石山の麓に手厚く葬ったのが現在の安徳天皇阿弥陀寺陵であると伝えられています。

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「先帝祭上臈参拝」の翌日(5月4日)、赤間神宮を出発してこの小門の御旅所まで神輿(鳳輦)の往還する御神幸祭に当っては、中島家がこの御旅所に待機して上臈道中・上臈参拝を先導しています。

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2016年2月 9日 (火)

赤間神宮(8)紅石稲荷神社

大連神社の横には紅石稲荷神社があります。

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源平の争乱時、平家一門が安徳天皇を奉じ西還するに際、 京都の伏見稲荷大明神を勧請して乗船。長門国壇ノ浦に着いたとき、紅石山景勝の地を選び、紅石稲荷神社を創建したと伝えられています。

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以来、多くの人々の崇敬を受けましたが、昭和20年7月2日の空襲により社殿を焼失。鎮守八幡宮宮域内に仮殿を設けて、一時的な宮居としました。

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やがて、源平800年を迎えようとする昭和58年の秋に、この地を選んで神殿を造営し、昭和59年2月6日に竣工、遷座式と祝大祭がとりおこなわれました。

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紅石稲荷神社 御由緒

今を去る八百年前、源平の争乱起るや、平家一門は御幼帝安徳天皇を奉じて西遷するに際し、皇城の鎮護たる京都伏見稲荷大明神を勧請し乗船、長門国壇の浦に到るや、紅石山景勝の地を撰びて鎮祭されたるを以て創建とす。
尓来御神徳は西海に光被し、御霊験またあらたかにして多くの崇敬を専らとし給うも、昭和二十年七月二日戦災に遭い、社殿を消失鎮守八幡宮々域内に仮殿を設けて誓時の宮居とす。
やがて源平八百年を迎えむとする昭和五十八年秋、この地を選び神殿造営の工を起すや、奉賛会長大和順一はじめ氏子信者一丸となりて募財、昭和五十九年二月六日初午の吉辰を寿きて施工、西遷座ならびに奉祝大祭を厳修せり。
ここにその由来を記し似て後世に伝えむと伝爾。
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2016年1月24日 (日)

赤間神宮(6)八咫鏡奉鎮の碑、薄墨の松

安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだとされた三種の神器の八咫鏡は、岡山県で発見され赤間神宮に奉鎮されました。

赤間神宮には、第十代祟神天皇から第八十代安徳天皇までの八咫鏡が納められているそうです。

現在、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣(天叢雲剣)は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は皇居の御所にあるとされています。

八咫鏡 奉鎮の碑    
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八咫鏡発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑

維時昭和三十三年四月七日 赤間神宮に畏くも
天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり是より
恰かも百日目の七月十三日岡山県英田郡作東
町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし
春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知ら
れ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一
つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや   
正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に
発掘するに至る春名義雄氏は此年九月十三日
安徳天皇御入水の地下関市壇の浦に鎮座する
赤間神宮大前に奉還を誓いしに地元住民の一
部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起さ
れる等紆余曲折すること二十有余年即ち昭和
五十三年其の一切を竟り来る昭和六十年五月   
安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当り斯く
も生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を
永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らか
にするものなり   

昭和五十九年十二月吉日 赤間神宮宮司 水野久直 記

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薄墨の松
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石幢(せきとう)
天正十年三月の銘があり山口県では最古のもの。もと本陣伊藤邸にあったが、
昭和四年社殿の完成に際し当主伊藤盛吉氏から赤間神宮に移された。

薄墨の松
文和五年足利尊氏氏は、安徳天皇御廟に参拝し
いづくより名をあらわさむ薄墨の松もる月の門司の夕暮
と詠じた老松があったが昭和二十年の戦災に惜しくも焼失した。
これはその二世である。

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2016年1月 6日 (水)

赤間神宮(4)拝殿~本殿

赤間神宮は、第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工しました。

比較的新しい社殿だけに、朱色がまぶしいくらい鮮やかです。

外拝殿(大安殿)
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有栖川宮幟仁親王殿下の書かれた勅額
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内拝殿
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まるで竜宮城のように美しいですね。

赤間神宮は、他の神社とはまるで異なる雰囲気が漂っているように感じます。

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2015年11月25日 (水)

赤間神宮(1)水天門 ~水天供養塔

文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は、現場付近では発見されませんでしたが、建久2年(1191年)、勅命により下関に御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりとされています。

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当時は阿弥陀寺といい、奇兵隊の本拠地にもなりました。

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明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって赤間神宮となりました。

水天門
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竜宮城を模した竜宮造の楼門です。

「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることから。
  

ふり返ると、関門海峡を行きかう船が見えます。

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幕末の動乱期、稲荷町には「大坂屋」という遊郭がありました。大阪屋は稲荷町では最大の鵜遊郭で、坂本龍馬や高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが出入りしていました。
大阪屋のあったところは、現在は東京第一ホテル下関が建っています。
その大坂屋が藩政期に女官の美風を後世に伝えようと始めたのが、花魁の赤間神宮参拝で、花魁が稚児たちを引き連れ、参拝する行事は上臈参拝と呼ばれます。
上臈参拝は源平合戦で生き残った平家の女官が安徳天皇の命日に、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)に参拝したことに由来します。
現在も、毎年5月、壇ノ浦の戦いで関門海峡に入水した安徳天皇をしのぶ「先帝祭」で、花魁に模した太夫が禿、上臈、稚児、警固らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く行事が行われています。

安徳天皇神徳記
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水天供養塔
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平家茶屋
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2015年11月14日 (土)

安徳天皇阿弥陀寺陵

下関の赤間神宮境内に、安徳天皇阿弥陀寺陵があります。

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壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子に収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。
明治時代の廃仏毀釈運動により、阿彌陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされ阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされた。(Wikioediaより)

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なお、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり、九州四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があります。

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2015年10月29日 (木)

安徳天皇入水像

旅亭・料亭「みもすそ川別館」の敷地内に安徳天皇入水像の碑があります。

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寿永4年3月(1185)平家滅亡の折、安徳幼帝二位の尼に抱かれ壇之浦の海に入水された姿を備前焼きで造られたものです。

作者は岡山県の浦上善治氏、昭和40年制作。

二位尼に抱かれ手を合わせる安徳天皇。

二位尼像は壇之浦の方を向いて立っています。

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2015年10月14日 (水)

みもすそ川公園(3)壇ノ浦古戦場跡

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寿永4年(1185)源氏と平家の最後の戦いとなった壇ノ浦合戦の跡で、 二位尼に抱かれた安徳天皇はわずか8歳にして壇ノ浦の海へ入水し、平家は滅亡しました。

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日本史の節目を刻む関門海峡

    西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。
    寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。

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2015年10月 7日 (水)

みもすそ川公園(2)安徳帝御入水之処碑

安徳帝御入水之処碑

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二位尼による辞世

「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

が刻まれています。

寿永4年(1185年)に壇ノ浦の戦いで、最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げました。

安徳帝「私をどこへ連れて行くのか」

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二位尼「波の下にも都があります」と安徳帝を抱きながら、海の中へ身を投げたといいます。

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