源頼家と段葛
鶴岡八幡宮に続く若宮大路の二の鳥居から三の鳥居まで続く参道は、葛石を敷いて一段高くしたため、段葛(だんかずら)と呼ばれています。
段葛
1182年、北条政子が源頼朝との長男・源頼家(鎌倉幕府の第2代将軍、幼名万寿,または十幡)を懐妊していた時、頼朝が政子の安産祈願のため築いたといいます。
源頼家
段葛
鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に通ずる若宮大路の中央の一段高い道路部分をいう。現在は赤橋(三ノ鳥居前)から小町口(二ノ鳥居)までの間に残っているが,元は米町口(下馬四つ角)あるいは浜の大鳥居(一ノ鳥居)まで続いていたともいう。段葛の名は,葛石を段に築いたからだという。ただ中世の記録には段葛の名は現れないので,いつごろからこう呼ばれたのかは明らかでない。《吾妻鏡》の寿永元年(1182)3月15日条に源頼朝が妻政子の安産祈願のために御家人等に築かせたと記されている。(コトバンクより)
源頼家
鎌倉幕府の第2代将軍。幼名万寿,または十幡(万)。源頼朝と北条政子の長男として,鎌倉比企谷第に誕生。鎌倉若宮大路の段葛はこの折の安産を願い,頼朝みずから御家人を指揮して造らせたものという。頼朝が長男に寄せる期待は大きく,建久4(1193)年の富士の大巻狩りで頼家に鹿を射止めさせたのは,関東御家人への家督披露のためであり,同6年の上洛に同伴参内した行為には,幕府の後継者として朝廷の認知を得る意図が込められていた。正治1(1199)年1月,父の死により頼家が鎌倉殿の地位を相続,頼朝の遺跡継承を認める宣旨を受け,建仁2(1202)年7月には征夷大将軍となった。(コトバンクより)
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