文覚上人屋敷跡
昨年まわった鎌倉の史跡巡りより、文覚上人ゆかりの史跡を紹介します。
金沢街道から大御堂橋を渡ったところに文覚上人の屋敷跡の石碑があります。
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠と言います。
以前は上西門院の警備をしていましたが、18歳の時に源渡の妻袈裟御前に想いをよせ、源渡を殺そうとして、誤って袈裟御前を殺してしまいました。
これを深く悔いて僧となりました。
その修行は凄まじいもので、厳寒の時も、猛暑の中でも外で寝て、滝に打たれ、死にかけたともありました。
養和2年4月、源頼朝の本願として、弁財天を江ノ島に勧請し、 ここで参籠し、37日もの間、食を断ち祈り続けたと言われています。
この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。(碑文より)
大蔵幕府跡からも近く、いかに文覚が幕府に対して権限を持っていたかを窺い知ることができます。
文覚
生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子。初め上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行した。文覚は空海(くうかい)を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺(じんごじ)に住み、修復に努めた。1173年(承安3)後白河(ごしらかわ)法皇の御所法住寺(ほうじゅうじ)殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園(しょうえん)の寄進を強請して伊豆(いず)に流され、そこで配流中の源頼朝(よりとも)に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛(たいらのきよもり)が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣(いんぜん)を仲介して、頼朝に挙兵を促した。1183年(寿永2)法皇から紀伊(きい)国桛田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺(とうじ)の復興をも図り、1189年(文治5)播磨(はりま)国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親(みちちか)の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽(ごとば)上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬(つしま)に流され、やがて没した。(コトバンクより)
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