源頼義

2013年12月20日 (金)

宇佐八幡宮

近江神宮から宇佐山に上がって行くと、宇佐八幡宮があります。

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近江神宮から歩いて10分ほどのところに、この石碑があります。

ここからさらに山道を上って行きます。

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鳥居が見えてほっとしたのですが、ここからの登り道がきつかった~(^_^;)

しばらくすると、この門が見えてきます。

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参道の途中に、霊泉(金殿井)があります。

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天智天皇の病気を治したといわれています。

更に進むと、拝殿が見えてきます。

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宇佐八幡宮は、1065(治暦元)年、源頼義が宇佐神宮(大分県)を勧請して創建しました。

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近くに頼義の屋敷があったといいます。

宇佐八幡宮は、土地の氏神、子供の守神・むし八幡として親しまれています。

八幡宮からさらにのぼっていくと宇佐山山頂に1570年織田信長が森可成(森蘭丸の父)に命じて造らせた宇佐山城跡があるそうです。

信長が京都へ退却した後、森可成は、坂本(大津市坂本)で戦死。浅井・朝倉軍は、宇佐山城に迫りましたが、武藤五郎右衛門らにくいとめられ、その後、信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山延暦寺の焼き討ちを、宇佐山城を拠点にして行ったと伝えられています。(滋賀県歴史散歩参照)

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2013年6月 6日 (木)

今戸神社

東京の台東区今戸の今戸神社は、康平六年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれています。
また1081年(永保元年)にも清原武衡・家衡討伐の際、戦勝祈願をしたといわれています。幾度か戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものです。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡から今戸神社と呼ばれるようになりました。

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 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。
諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。
 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。
(案内板より)

また浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っています。

江戸時代、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って「自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる」と言いました。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことから招き猫発祥の地とされています。

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また、当社は幕末の志士・沖田総司の終焉の地とも言われています。

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これは、結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきているそうです。

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2012年2月25日 (土)

河内源氏の里を訪ねて(3)源頼義の墓

源頼義の墓は、通法寺の境内の旧本堂跡に、源頼義の墓があります。

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源頼義は源頼信の長男として988年(永延2年)に生まれ、藤原道兼、藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任。

河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)に土着して香炉峰の館を建てました。

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長元4年(1031年)、甲斐守として平忠常の乱を平定。
武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと「道長四天王」や「四天王」と称されました。

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奥にある灯籠は1702年(元禄15年)再建の際、柳沢吉保が寄進したものです。


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2012年1月29日 (日)

河内源氏の里を訪ねて(2)通法寺跡

壺井八幡宮から石段を下ってしばらく進むと、通法寺跡があります。

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通法寺は、1043(長久4)年に河内国司であった源頼信が子の頼義とともに小堂を建てたことに始まります。
前九年合戦で、東北地方で活躍した頼義が浄土教に帰依し、阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となりました。

南北朝時代~戦国時代にかけて戦火で焼失。
1700(元禄13)年、5代将軍・徳川綱吉の時に、子孫の多田義直が願い出て、大僧正隆光や柳沢吉保らにより、壺井八幡宮・壺井神社とともに再建されましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、今では山門、鐘楼などを残すのみです。

案内板が朽ち果てていて、よく読めませんでした(^_^;)


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2012年1月 6日 (金)

河内源氏の里を訪ねて(1)壺井八幡宮

みなさま、新年明けましておめでとうございますhappy01
本年もしずかblogをよろしくお願いしますm(__)m

さて、新年最初の記事は大阪の河内源氏の記事です。

昨年秋、大阪府羽曳野市にある神社である壺井八幡宮に行って来ました。

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このエリアは、河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司として赴任し、この地の香呂峰に館を構え、河内源氏の祖となりました。
頼信頼義義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになりました。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役(1051~1062)平定後、源頼義が、河内国香呂峰(こうろみね)の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りとされています。この時、地名を香呂峰から壺井と改めました。

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その後、源頼義は、東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請しました。(後の鶴岡八幡宮)。頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となります。
南北朝から戦国時代にかけ、度重なる兵火で衰退し、現在の社殿は、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものです。
第二次大戦後、現在の壺井八幡宮に改称しました。         

壺井権現社

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壺井八幡宮本殿の奥には頼信・頼義・義家、義綱、義光を祀る摂社・壺井権現社(壺井神社)があります。
天仁2年(1109年)源義家の五男・義時が創建して河内源氏の崇廟としたもので、源氏三神社の一つです。(あとの2つは京都・六孫王神社、摂津・多田神社)

壺井の井戸

丘陵南の石段下にある古井戸「壺井」の由来は、前九年の役の天喜5年(1057)6月7日、頼義公・義家公父子が飲料水に悩まされた時、頼義が八幡大菩薩に礼拝し、自ら弓矢で岸壁を穿ちったところ、そこから清水が湧き出し、戦勝を得たので、湧水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘ってその壺を埋め、「壺井水」と称したといいます。壺井水の井戸は、現在も完全に保存されており、最近まで飲料水として利用されていたそうです。 

義家の歌碑

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吹く風を なこその関と思へども 道も狭に散る 山桜かな

(戦よ、もう起こってくれるな。桜の花が散るように、人の命も散るではないか)

この和歌は千載和歌集に載せられています。  

樹齢800年といわれるクスノキ

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壺井八幡宮境内は、府の史跡にも指定されています。


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2011年8月31日 (水)

東京の源平史跡(13)炎天寺・八幡神社(2)旗掛の松

炎天寺の境内に続いて八幡神社があります。

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この地周辺を望む小高い丘に、義家軍の白旗を立て掛けた松「旗掛けの松」があり、八幡神社の入口に今も植え継がれています。

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2011年8月25日 (木)

東京の源平史跡(12)炎天寺・八幡神社(1)炎天寺縁起

東武伊勢崎線竹ノ塚駅から南に15分ほど歩いたところにある炎天寺。

縁起によると、前九年の役(1051~1062年)で源頼義・義家父子が奥州に赴く際、炎天下にこの地で戦い、京都の石清水から鎌倉に勧請した八幡社に祈願して勝利した。
そこでここに神社と別当寺を建立したという。

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炎天寺には小林一茶がよく訪れたということから、境内には一茶の
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」
などの句碑や銅像があります。

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2011年2月24日 (木)

東京の源平史跡 大国魂神社

武蔵国の総社である府中の大国魂神社

景行天皇41年(111)5月5日、武蔵国の護り神として大国魂神を祀ったのが始まりとされています。
この地に武蔵国の国府が置かれて以来、国司が祭祀を執り行っていましたが、平安時代に各諸神を合祀する「総社」と呼ばれるものが置かれ、武蔵国では、大國魂神社がその総社となりました。
平安末期には、六か所の神社を合祀して「武蔵六所宮」と呼ばれるようになりました。

武蔵総社 大國魂神社

当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれ、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。(例大祭五月五日)

大國魂神社・府中市観光協会

源平関連の出来事としては、

●康平5年、前九年合戦平定の際、源頼義、義家父子が、ケヤキの苗千本を寄進した。(馬場大門のケヤキ並木の起源)
また、神前にスモモを供物として供したことから、後年この日とされる7月20日に毎年「すもも祭り」が行われるようになった。

●寿永元年に、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、政子の安産の祈願が行われた。

●文治2年源頼朝は、武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。

 (Wkikipedia参照)

その後、徳川家康が、関が原の戦いや、大坂の陣の戦勝祈願成就の御礼として馬場を献上し、本殿や拝殿、楼門を修築しています。
明治4年(1871)に武蔵総社大國魂神社と改称しました。

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御鎮座壱千九百年に向けて境内整備、宮乃咩神社、手水社の改築工事が始まっていました。

宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)

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頼朝政子の安産を祈願した神社。

主祭神名 天鈿女命

由緒

 この神社の創立は御本社大國玉神社と同じ景行天皇の御代(111年)であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神として崇敬されている。
 例祭日は七月十二日で、文治二年(1186年)源頼朝より武蔵国中の神職に天下太平の祈願を行うよう令して以来、毎年この日の夕刻より翌朝にかけて、国中の神職が参会し終夜神楽を奏し祈祷が行なわれた。この祭は青袖・杉舞祭と言われる。(今は国中の神職は参加しない)、また、頼朝の妻政子が当社に安産を祈願したという伝えもある。
 安産祈願の折に願いを託した絵馬を奉納し、無地願いが叶うと御礼に底のぬけたひしゃくを納める風習が今でも行われている。

          北多摩神道青年会

(説明板より)

相撲場

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毎年8月1日に、八朔相撲祭が行われる。

天正18年(1590)8月1日 徳川家康の江戸入城を賀し、この日を記念して天下泰平・五穀豊穣を祈る奉納相撲として始まったものである。

中雀門       拝殿

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東照宮

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元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営された。
徳川家康公歿後、駿河国久能山により下野国二荒山に霊輿を遷された時その途次、この国府の斎場に一夜逗留せられたのでその遺跡を後生に伝える為造営された。

4月30日~5月6日まで、くらやみ祭という大国魂神社最大のお祭りがあり、8基のお神輿と6張の太鼓が、甲州街道からお旅所までを練り歩きます。関東三大奇祭の一つであるこの祭りは本来、歌垣の性格を帯びていましたが、明治時代になってその淫靡な風習は改められ、、夜間に実施されていた祭礼の行事も昭和34年より夕刻の実施となりました。

※歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。


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2006年8月 5日 (土)

源氏と鎌倉を結びつけた源頼義

平忠常の乱(1028~1031)を鎮圧し、平直方に見込まれ、娘婿となる。鎌倉の直方の屋敷を譲り受け、源氏と鎌倉を結びつけることなった。二人の間に生まれたのが八幡太郎義家である。
前九年の勝利の礼として、源氏の氏神である岩清水八幡宮を勧請し、由比若宮(元八幡)を創建するに至った。(義経伝説紀行参照)

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