斉藤実盛

2006年9月25日 (月)

北陸の旅(9)多太神社 芭蕉の句碑

実盛の首だと確認した樋口次郎は、「あなむざんやな 斉藤別当で候ひけり」と涙を流した。
実盛の死後、500年経ってから、芭蕉がここを訪れ、

むざんやな 甲の下の きりぎりす

と句を詠んだ。

この句は当初
「あなむざんやな」から始まっていたのですが、後に芭蕉が調子を整えるために「あな」省いたそうです。

あな・・・「ああ」 強い感動を表す語。  

また、芭蕉は実盛の兜を見て、

目庇(まびさし)より吹返しまで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり

と賛美したという。

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2006年9月24日 (日)

北陸の旅(8)多太神社 実盛の兜

多太神社には、義仲が奉納した実盛の兜、大袖、臑当が宝物館に収蔵されています。
実盛の兜の重さは4.4kgとかなり重いことから実戦用ではなく、大将の印に陣屋に飾るものであったのではないかとされています。
普段は宝物館の見学は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶと祭り」では一般公開しているそうです。

実盛の兜・・・義仲が願状を添えて奉納したと伝えられている。
        高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg
*下の写真はNHKBSの番組で実盛の兜が紹介された時のものです。06091014dvc00104

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2006年9月23日 (土)

北陸の旅(7)多太神社と謡曲「実盛」

謡曲「実盛」は世阿弥の修羅物で、実盛の霊が200余年経っても浮かび切れず、遊行上人の説法を聴聞し、念仏往生を頼んで消え去ったという伝説と篠原の戦いを脚色してあります。謡曲の中で実盛は、最後は大将の義仲と戦うつもりだったのに、家来の手塚太郎に討たれてしまったことが悔しいと語ります。

JR小松駅から徒歩20分ほどのところある多太神社には手に鏡を持ち、白髪を染める実盛の像があります。1c_48 C_128


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2006年9月22日 (金)

北陸の旅(6)実盛と虫送り

実盛は稲の切り株につまずいたために手塚太郎光盛に討たれたとされています。
その怨みから実盛の怨霊が稲の害虫となったということから、稲の虫除けと豊作を祈願する伝統行事が行われています。虫を捕らえ、田んぼをを通って村の外に送り出すというこの行事は、実盛の死後、何年かの間、凶作が続き、義仲が実盛の供養と豊作を兼ねて虫送りを始めたことが起源となっています。

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2006年9月21日 (木)

北陸の旅(5)実盛塚

首洗池から1kmほどのところに実盛の墓と伝えられる「実盛塚」がある。

1414年、時宗の14世紀遊行上人が篠原古戦場近くの道場で布教している時、実盛の亡霊に会い、卒塔婆を書いて霊を慰めたという。これが世阿弥の謡曲「実盛」のモチーフになりました。(「義経伝説 南加賀の旅」より)

生垣に囲まれた立派な黒松は、最期まで立派に武士として戦った実盛を表すようである。
与謝野晶子が、ここで

「北海が盛りたる砂に あらずして 木曽の冠者が きづきたる塚」

という歌を詠んでいます。

*実盛塚の前では毎年8月20日からの片山津温泉湯祭りの際、供養際をし、地元の女子中学生が白装束で「篠原慕情」を踊るそうです。C_126 1c_46 6c_8

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2006年9月20日 (水)

北陸の旅(4)実盛の最期の装い

実盛は、もしも自分が討ち死にした場合、粗末な衣装を着ていたのでは恥ずかしいから「錦の直垂」を着たいと平宗盛に申し出たが、はじめは許してもらえなかった。
だが、出陣する際、哀れに思った宗盛が自分の衣装を実盛に与え、実盛は錦の直垂を見にまとい、義仲軍との戦に赴いたという。

錦の直垂は大将軍の装いであった。
「故郷へは錦を着て帰れ」(故郷に錦を飾る)は、史記・項羽本記によるものである。

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2006年9月19日 (火)

北陸の旅(3)木曽義仲、主従の像

実盛とわかった兼光は「あなむざんや」と言った。
実盛はこの時、前の主君である源義朝に拝領した兜を付け、現主君である平宗盛に許された出で立ちだったという。
実盛は源為義、源義朝に仕え、後に平維盛に仕えた武将である。

その昔、義仲が幼い頃、父である義賢を義経の父・義朝の長男・義平に殺され、義仲は母とともに畠山重能にとらわれました。そのことを不憫に思った重能は、実盛に助けを求めます。
実盛は義仲らの安全を図るたため、木曽の中原兼遠のもとに義仲親子を預けました。
義仲は、幼い頃、自分の命を助け、育ててくれた実盛の首を抱き、涙を流した。

首洗池の前には実盛の首を抱き嘆く義仲、兜の前にひざまずく樋口次郎兼光、がっくりとうな垂れる手塚太郎光盛の像があります。

木曽義仲    樋口兼光    手塚光盛3c_19 4c_4 5c_3

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2006年9月18日 (月)

北陸の旅(2)実盛の首洗池

赤地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着た一騎の武者に手塚太郎光盛が「なのらせ給え」と声をかけたが名乗ろうとしない。ついには光盛がその武者の首を討ち取り、首を義仲に見せた。義仲は直感で実盛だと思い、実盛と親しかった樋口次郎兼光に確かめさせた。
実盛は日頃から「年老いていると侮られないように戦に赴く時は髪を黒く染めていこう。」と兼光に話していたという。
その首を目の前の池で洗ってみると黒髪は白髪となって現れた。

実盛の首を洗ったという「首洗池」が篠原古戦場の中にあります。1c_45

 

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2006年9月17日 (日)

北陸の旅(1)篠原古戦場

1183年、倶利伽羅峠の戦いで、平家軍を破った木曽義仲(源義仲)に対し、平家軍はここ篠原に陣を取り、義仲軍と戦った。しかし、義仲軍の前に平家軍は苦戦し、京に逃げ帰る兵まで出てきた。そんな中、斉藤別当実盛だけがこの地に残った。
実盛は73歳、髪は白髪。老武将と侮られないように、白髪を黒く染め、義仲軍に立ち向かっていった。(続)

*篠原古戦場はJR小松駅から車で10分くらいのところにあります。1c_44

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