今若(全成)

2024年11月17日 (日)

沼津の大泉寺(3)境内を散策

では、大泉寺の境内を散策してみましょう。

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こちらが本堂です。

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庫裏
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また、境内のあちこちに、可愛いお地蔵さんや動物の像などがあります。

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境内には館跡を偲ばせる土塁が残っています。

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大泉寺の門前には大きな銀杏の木があるのですが、この木に纏わる銀杏観音の話が伝わっているそうです。

子宝に恵まれない貧しい夫婦が、寺参りし祈りを捧げ、男児を授かる。しかし乳が出ずに困った夫婦は、再び寺に通い祈った。すると、母親の夢に、輝く観音がいちょうの木の上から現れ、願いをかなえると伝えた。二人は大きな銀杏の木がある大泉寺へ熱心に通い続け、十日余り後、ついに乳が出るようになった。この話が遠方まで伝わり、この大きな銀杏の木は「銀杏観音」「子育て観音」と呼ばれるようになった、という言い伝えがある。(Wikipediaより)

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2024年11月 7日 (木)

沼津の大泉寺(2)阿野全成の首掛け松

この大泉寺には阿野全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。

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また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。

大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。

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またその切り株は、お寺で保存されています。

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ご住職が見せてくださいました😃

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大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。

 

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2024年10月30日 (水)

沼津の大泉寺(1)阿野全成の墓

阿野全成の幼名は今若

7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。

兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。

その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。

頼朝の死後、嫡男の源頼家が将軍職を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と組んで実朝を擁立し、頼家一派と対立。

建仁3年(1203年)5月19日、頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。享年51。

さらに7月16日には三男の阿野頼全(播磨坊頼全)が京都の東山延年寺で源仲章によって殺害されました。

全成の首は阿野庄全成館に届けられたといいます。

四男の阿野時元はこの時、外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲しましたが、建保7年(1219年)1月、従兄弟に当たる第3代将軍・源実朝が殺害されると、将軍の座を望んで翌月(承久元年2月11日)挙兵。しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られました。
(『承久記』によると、最期は自害であったと。)

全成・時元の墓は、静岡県沼津市東井出の大泉寺にあります。

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阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建て、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立。

全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、全成と涙ながらに語り合ったといわれています。

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伝阿野全成・時元墓 
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。

墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
  沼津市教育委員会

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大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。

 

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2007年4月13日 (金)

醍醐寺(1)今若と醍醐寺

春の京都へ行って来ました。
まずは桜で有名な醍醐寺から。

醍醐寺は、牛若の長兄である今若(後の阿野全成)が出家したとされるお寺です。
全成の評判はというと、あまり良くなかったようで、醍醐寺悪禅師などという呼ばれ方をしていたそうです。
その全成は、頼朝が挙兵したという知らせを受け、すぐに兄のもとへ向かいますが僧侶の立場から頼朝軍には入ることができず、武蔵国の長尾寺へ入りました。
その後、北条政子の妹の保子(阿波局)と結婚し、頼朝政権のもとで着実に地位を築いていきました。


※全成についてはこちらにも記事を載せてあります。
http://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/cat7283712/index.html


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2006年4月15日 (土)

阿野全成(2)

全成の長男・時元も1219年、北条氏討伐の兵を挙げるが、あえなく敗北、時元は自害した。
全成・時元の墓は沼津の大泉寺にある。また大泉寺には全成の首が一夜のうちに阿野の地まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという伝説がある。

2006年4月14日 (金)

阿野全成(1)

幼名は今若。幼い頃に京都の醍醐寺に出家させられ、全成と名乗ったが、頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけた。その時、頼朝は涙を流して喜んだという。
その後、北条政子の妹・保子(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていった。
頼朝の死後、北条氏の勢力が強くなる中、全成は北条氏討伐の兵を挙げたが、幕府に謀反の罪で常陸国に配流され、1203年6月、下野国で処刑された。享年51歳。
全成の首は阿野庄全成館に届けられたという。

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