長野県の別所温泉は、信州で最も古い歴史をもつ温泉といわれ、開湯にまつわる言い伝えは古代にまで遡り、開湯は第12代景行天皇の時代に日本武尊が東征している際に発見したのがはじまりとされています。
別所温泉には3つの外湯(共同浴場)があります。
そのうちの一つが、木曽義仲ゆかりの「葵の湯」です。
平安時代、平家討伐の為に挙兵した木曽義仲が、ここに立ち寄り、御湯屋を新築し、愛妾・葵の御前としばしば入浴していたので「葵の湯」と呼ばれていました。
その後、北条義政が信濃の守護職としてこの地に居を構え、浴室を建て、北条湯とも呼ばれていましたが、後にその溢れ出る湯の量の多さから「大湯」と改められました。
早朝から引っ切り無しに、地元の方達が朝風呂を浴びに来ていました。
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昨年、名古屋市瑞穂区の史跡を訪ねました。
祭神「直會白龍大神」は、のうらいさま、かさどうさま、かつら姫大神とも呼ばれ、木曽義仲の側室のことをいいます。
直會社(なおらいしゃ)
寿永三年(1184)木曽義仲軍は、源頼朝の鎌倉軍に「勢田の戦」に敗死。一族逃げまどう中、側室かつら姫が腫瘍で大変難渋。
「おできで苦しむ人を助けてください。とのご意志を残しこの地で亡られ、榎を墓標に手厚く葬られた傳説にいつの世から榎をご神木としてあがめ、「のうらいさま」と親しまれ、霊験も崇で、せんこう、ローソクの火絶えず朝野の信仰をいただき、今でも般若心経の声高らか、神前の小石で体をさすられると、病も癒されると、言われています。
医学の発展に依り、極日の面影はなく「のうらいさま」の御名の由来も不明で榎も今では枯れ、「もくの木」がご神木となっています。
おできの神様とは初めて聞きました。
いろんな神様がいらっしゃるのですね(^_^;)
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JR関西本線蟹江駅を出て、約20分歩いたところに龍照院があります。
龍照院は、733年、行基が創建したと伝えられ、1182年(寿永元年)木曾義仲が七堂伽藍及び十八坊を建立し、その中央に蟹江山常楽寺を置き、本尊十一面観音菩薩を安置、明恵上人が中興したといわれています。
1584年、小牧・長久手の戦いにおける蟹江合戦の際、本堂龍照院を残し、他は兵火のため焼失しました。
1868年、神仏分離、廃仏毀釈により、常燈を備えるのみとなり、1891年の濃尾地震により本堂全てを倒壊しましたが、69世・政隆の時に復興を果たしました。
重要文化財として本尊の十一面観音菩薩像があります。
収蔵庫に安置され、毎月第三日曜に開帳されます。
蟹江町指定重要文化財として大日如来坐像(大日堂安置)と鰐口があります。
大日如来坐像は、木曾義仲菩提を弔うために巴御前が安置した仏像と言われています。
巴御前は、木曾義仲とともに幼少のころから生涯をともにし、木曾義仲が平家追討の兵を上げたとき、義仲に従って上洛しました。
元暦元年(1184)粟津で巴は義仲と別れ、信濃へ落ちる際、蟹江町の常楽寺は義仲が建てた寺であることを知りました。巴はこの寺に如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられています。
墓地にある銀杏は、樹齢400年を越える古木で、秀吉が植えたとされています。
(蟹江町観光協会HP参照)
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義仲の墓の隣には、松尾芭蕉の墓が立っています。
義仲寺は、江戸時代中頃までは、義仲の墓と伝えられる塚に柿の木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていました。
芭蕉が最初にこの寺を訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、その年の暮れは当寺で過ごしたそうです。その後、義仲を敬愛していた芭蕉は、膳所の地をたいそう気に入り、度々訪れました。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句は、伊勢の俳人・山田又玄が、1691年、無名庵に滞在中の芭蕉を訪問した時のものです。
1694年、旅の途中に大阪で死去した芭蕉は、義仲寺に葬ることを遺言し、門人の向井去来らにより、遺骸を木曽塚に運ばれ、埋葬されました。
「平家物語」の史跡めぐりをしていると、各地で芭蕉の句碑に出会います。
倶利伽羅峠の古戦場跡には、「義仲の寝覚めの山か 月悲し」という句碑が残されており、この句碑からも、芭蕉が義仲を敬愛していたことがわかります。
芭蕉翁墓
芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。
享年51歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第2土曜日に営む。(芭蕉翁墓の説明より)
翁堂
正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。
翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。
翌7年に画像完成。
安政3年(1856)類焼、同5年再建。
現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年5月の第2土曜日に行う。(翁堂の説明より)
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JR膳所駅より琵琶湖方面に五分ほど行ったところに、義仲寺があります。
義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、後に源義経・範頼軍に追われ、粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことに由来し、近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
境内に入るとすぐに山吹塚があります。
山吹塚
山吹は義仲公の側女。
元は、JR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事のため、この地に移されました。
山吹は義仲の妻そして妾とも云う
病身のため京に在ったが義仲に逢わんと大津まで来た
義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われる
その供養塚である
元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである
(山吹供養塚の説明)
JR大津駅の前に山吹御前を祀った祠と句碑が立っています。
山吹地蔵
大正十年八月大津駅がここに建設させるまで この地一帯は秋岸寺という古いお寺でありました。
その昔木曽義仲が粟津が原で鎌倉軍勢と戦って敗れ、今井兼平等多数の部下とともに戦死した時、愛妾山吹御前は京洛から義仲を慕ってはるばる逢坂山を越えてここまで来ましたが、逢うことができず秋岸寺境内の竹薮の中で敵刃に倒れたのであります。
後世有志が薄幸の山吹を弔うために境内に地蔵尊を刻んでお祀りしていましたが駅の新設と同時に寺は移転し地蔵尊は鉄道宿舎の主婦達の手によって祀られてきたのであります。
昭和50年駅舎改築を機にりっぱな祠を建ててここに祀ることになり、誰いうことなく山吹地蔵と呼ばれております。(大津駅長 大津市観光物産課)
句碑 「木曽どのをしたひ山吹ちりにけり」
山吹塚の奥には、巴塚があります。
巴塚(供養塔)
木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが 義仲が強いての言葉に最期の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという
それより何処ともなく立ち去り信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う
(巴塚の説明より)
三浦義一翁歌碑
巴
「かくのごとき をみなのありと かつてまた おもひしことは われになかりき」
「としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みづうみのうへを わたりゆく月」
巴塚と仲良く並んで、隣には義仲の墓が立っています。
義仲公墓(木曽塚)
土壇の上に宝篋印塔をすえる。
芭蕉翁は木曽塚ととなえた。
義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年1月の第3日曜日に営む。
朝日堂
義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。 義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平公、芭蕉翁ほか合わせて31柱の位牌を安置する。
現在の朝日堂は、昭和54年(1979年)11月改築されたものである。
木曽八幡社
木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。
昭和51年(1976年)社殿鳥居を併せ新造、11月13日夜、遷宮の御儀を行った。
こじんまりとした境内ですが、石碑をはじめ句碑などがたくさんあり、見所の多いお寺です。
義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12
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粟津は、木曽義仲の最期を遂げた地です。
義経軍に攻められた義仲は、巴御前を逃がし、兼平と二人になりました。
義仲は、自害する場所を求め、粟津の松原へ馬を走らせます。
江戸時代になると、ここに番所が建ち、旧東海道を通って、京都へ向かう旅人を監視していました。
以前は粟津の番所跡建物があったそうですが、今では膳所城下の南の入り口にあたる勢多口総門の位置を記す標柱がマンションの前にあるのみです。
この石碑を探すにあたって、ガイドブックに掲載されていた住所を手がかりに探したのですが、石碑の場所が移転したために、なかなか見つからず、犬を散歩している方に聞いてようやくわかりました。
「粟津の番所跡」でなく、「膳所城勢多口総門跡」で検索すれば出てきますね。
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瀬田の唐橋は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる全長260mの橋。
宇治橋、山崎橋とならんで、日本三名橋・日本三古橋のひとつとされています。
瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われました。
源平合戦では、義経&範頼軍と木曽義仲軍の戦の舞台となりました。
範頼軍と義経軍が宇治川を渡ったと聞いた義仲は、今井兼平を瀬田の唐橋へ派遣しました。
兼平は、瀬田橋の橋板をはずして守っていたといわれています。
瀬田の唐橋 大津市唐橋町
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一日目の午後13:00 かがみの里を発って守山へ
寛永19年(1642年)江戸幕府は、中仙道を整備し、
守山宿を67番目の宿場としました。
中仙道の町並み
中仙道沿いには、今も宿場町を思わせる建物が残っています。
守山の源内塚へ
頼朝に逆討ちにされた源内兵衛弘が村人に供養されたという塚です。(左側)
京阪線との連絡通路には芭蕉像が
おおつ1day切符 石山坂本線一日乗り放題 (500円)で、
京阪線沿いの史跡巡り
ちょっとした待ち時間もラッピング電車を見て楽しんでいました。
龍馬さんも!
唐橋前下車
東国へ攻め上がる義経・範頼軍と義仲軍の戦った瀬田の唐橋へ
瀬田川の攻防戦は、戦の勝敗を決めるところとして、
「唐橋を制するものは、天下を制す」といわれてきました。
石山寺下車
頼朝、淀殿、芭蕉ともゆかりのある石山寺へ
駅を降りるとこの塔のモニュメントが
駅からてくてく歩いて10分ほどで東大門(仁王門)に到着。
1190年、頼朝が寄進したと伝えられ、1600年には
淀殿によって大修理が行われました。
多宝塔の下には、巨大なケイカイ石が
これが寺名の由来になっているそうです。
多宝塔、鐘楼も頼朝寄進とされています。
石山寺は別名「花の寺」とも呼ばれています。
この季節は、秋の七草のひとつ萩に彩られていました。
京阪膳所下車
木曽義仲ゆかりの義仲寺へ
ここには、義仲と愛妾・巴御前が眠っています。
三井寺下車 三井寺へ
琵琶湖疎水を眺めながら歩くと
弁慶橋と書かれたような橋が
やはり三井寺は、弁慶ゆかりの寺だからなのか・・・
駅から歩いて約10分で仁王門に到着
三重塔
弁慶の引き摺り鐘を見学
比叡山と三井寺の争いの際、弁慶が鐘を比叡山まで引き摺って
持ち帰り、鐘を撞いたところ、「イノー(帰りたい)」と響くので、
弁慶が怒って谷に投げ捨てました。
その時ついたとされるヒビや引き摺ったような跡が残っています。
おまけに汁鍋もΣ(゚д゚;)
弁慶の伝説に纏わるものは、豪快なものが多いですね。
また近江八景のひとつ三井の晩鐘も見逃せません。
弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎとして、鋳造されたそう。
とにかく三井寺は広い
まだまだ紹介しきれないので、また後日ゆっくりと・・・
粟津下車
膳所城勢多口総門跡(粟津の番所跡)へ
粟津は、木曽義仲が最期を遂げた地。
家臣の今井兼平と二人になった義仲は、自害する場所を求めて
粟津の松原へ馬を走らせました。
その後、江戸時代になり、番所が建ち、京へ向かう旅人を
監視していたといいます。
膳所城は、関ヶ原に勝利した家康が、膳所崎に築かせた水城で、
今は膳所城勢多口総門跡の石碑がポツンと残されています。
京阪石山下車
義仲の家臣・今井兼平の墓へ
義仲が討ち取られると、兼平も自ら太刀先を口に銜えて
馬から飛び降り、壮絶な最期を遂げました。
18時をまわったとlころで、一日目の日程を無事終了
あ~疲れた~ι(´Д`υ)アセアセ
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