橋合戦と扇の芝
治承4年(1180年)5月26日、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛・重衡軍を宇治川で迎え撃ちました。
宇治川を挟んでのこの戦は、「橋合戦」と呼ばれ、以仁王軍は、橋の底板を外して敵の侵入を防ぎ、矢で応戦していました。
橋の上でも激戦が繰り広げられましたが、17歳の足利忠綱が宇治川の急流の宇治川に馬を乗り入れると、平家軍が一気に平等院へ押し寄せました。
渡河を許したため、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退きます。
頼政は流れ矢に当たってしまい、もはやこれまでと家来の渡辺長七に首を討てと命じますが、長七は「生きている主人の首は討てません。
せめて自害してからにしてください。」と頼みました。
頼政は
「埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てで悲しかりける」
と辞世の句を残し、扇を広げてその上に座り、念仏を唱えて源頼政は自刃しました。
(「義経と平家の京都」参照)
宇治の平等院の観音堂の前に、芝が扇形になっている頼政終焉の地・扇の芝があります。
頼政の介錯をした長七は、敵に奪われないように頼政の首級におもりをつけて宇治川に沈めたといいます。
一方、奈良へ逃げた以仁王は、矢に当たって亡くなりました。
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