2008年8月29日 (金)

頼政の鵺退治(3)

平安時代、二条公園を含む一帯は、天皇の住まいである内裏や、国家政治の中心である官庁街でした。
今でも二条城のそばにある二条児童公園に、鵺大明神の祠と、水はありませんが鵺池が残されています。その池で、頼政が退治した鵺の死体から抜いた矢じりを洗い、死体は手厚く葬られたといわれています。

公園では子供たちが楽しそうに遊んでいましたが、この鵺退治の話は知っているのかな?

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2008年8月21日 (木)

頼政の鵺退治(2)

頼政が放った矢は、見事に怪物に命中した。
急いで家来の一人がとどめとばかりに腰刀で怪物を刺し通した。
見ていた殿上人たちが、松明を照らしてみると、そこに横たわっていたのは、
頭が猿、胴体が狸、尾は蛇、手足は虎のような得体の知れぬ生き物で、鳴き声は、トラツグミのように「ひょう、ひょう」と叫んでいた。
これが
鵺の正体であった。
以来、正体のわからぬことを「ぬえ」といい、この怪鳥が住んでいたところが、東山の鵺の森であったという。
鵺が退治されて以来、天皇のご病気はすっかり良くなり、鳥羽天皇から頼政に、褒美として、
獅子丸という名剣が渡された。

ちょうどその時、ホトトギスが鳴きながら飛んで行ったのを見て、左大臣・藤原道長が、

「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」と上の句を詠んだ。
すると頼政は、即座に
「弓はり月のいるにまかせて」と返した。
これを聞いていた天皇は、「弓矢ならず歌道にもすぐれている。」と褒めた。

鵺の死体は、鵺の森近くに埋められ、それが、岡崎公園内にあった鵺塚だと伝えられていある。

鵺の想像図Photo

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2008年8月15日 (金)

頼政の鵺退治(1)

源頼光の曾孫である頼政は、歌が上手く、弓矢の術にも長けていた。
保元の乱、平治の乱でも功をあげたが、源氏だっただけに大した恩賞にもあずからなかった。
後に従三位になり、源三位入道と呼ばれることになる。
その頼政が50歳頃の話である。

ときの近衛天皇が、毎夜何物かに怯え、気絶することが度々あった。
宮中では僧に命じて祈祷させたが、症状は一向にによくならない。
公卿たちも心配し、天皇の様子がおかしくなる時によく見ると、東三条の森の方から黒い雲のようなものが立ちこめ、御殿の上を覆うと天皇が苦しまれることがわかった。
「これは物の怪に違いない」と
武士に任せることになり、選ばたのが頼政であった。

深夜2時頃、弓矢を持った頼政が待ち構えていると、噂通り黒い雲が東の方から御殿の上にたなびいてきた。
「出たな、怪物め!」
空を見上げると、雲の中に怪しい物がうごめいている。
頼政は、矢を取って「南無八幡大菩薩」と唱え、矢を一気に放った。

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2007年8月 2日 (木)

源頼政の墓

埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てで悲しかりける

と辞世の句を残して頼政は自刃した。頼政の介錯をした長七は、敵に奪われないように頼政の首級におもりをつけて宇治川に沈めたという。
一方、奈良へ逃げた以仁王も矢に当たって亡くなった。

平等院の不動堂の手前に頼政の墓があります。C C_2 1c_2

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2007年7月26日 (木)

扇の芝

1180年5月26日、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛の大軍を宇治川で迎え撃つが、頼政は流れ矢に当たってしまう。
負傷した頼政はもはやこれまでと家来の渡辺長七に首を討てと命ずるが、長七は「生きている主人の首は討てません。せめて自害してからにしてください。」と頼んだ。
頼政は扇を広げてその上に座り、念仏を唱えて切腹した。(「義経と平家の京都」参照)

宇治の平等院の観音堂の前に、芝が扇形になっている頼政終焉の地・
扇の芝があります。1c

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